髙馬浩展
KOMA Hiroshi
髙馬浩展の展示風景です。
各壁面の展示を御覧下さい。
画廊入口から見て、左側の壁面です。
正面の壁面です。
右側の壁面です。
入口横の壁面です。
以上の7点が展示室の展示で、その他小展示室に2点、事務室壁面に1点の展示があります。
作品は1点の立体(石灰石)で除き、すべてキャンバスに油彩です。
作品の詳細を御覧下さい。
左壁面の作品です。
タイトル「201816」でサイズ1167×1167mm(S50)です。
左壁面前の作品です。
「201817」で34×108×58mmです。
正面壁面の作品です。
「201815」で1167×1167mm(S50)です。
右壁面、左端の作品です。
「201818」で655×910mm(P30)です。
右壁面、中央、右端の作品です。
左は「201805」で410×530mm(P10)です。
右は「201807」で500×727mm(M20)です。
入口横壁面の作品です。
「201814」で1000×1000mm(S40)です。
展示風景でご覧の通り、会場には長椅子が設置されています。
長椅子が設置されたのは前回の個展からですが、それ以前にも画廊のスツールを幾つか置いたことがあります。
多分に鑑賞の便宜のためですが、少し違った角度からこの長椅子のことを考えてみます。
(以下は髙馬さんの思惑を離れたわたしの勝手な想像です。)
絵画を見る行為は、通常鑑賞という言葉を使います。
壁に掛けられた絵画を、その前に立って見る。
これは近代以降の絵画の在り方です。
これに変化が表れたのは、1980年代です。
インスタレーションが表現形式として主流になり、絵画の存亡さえ問われた時代です。
結果として絵画は生き残ったのですが、鑑賞は微妙な立場に立たされました。
(少なからず)絵画と空間の融合が生じて、絵画は体験するものに変わっていったのです。
作家は絵画の配置に神経を配り、画廊空間に一つの視点を提供しました。
つまり、絵画とインスタレーションが分離不能になって、絵画の内実と空間の変容が同時に表現されたのです。
その只中で絵画を体験するために、あの長椅子はあると思います。
だから、髙馬さんの作品は鑑賞するのではなく、体験するものとしてあります。
もう一つ絵画の内実にも変化があって、それは画面の情報に関するものです。
ご存知の通り、わたしたちの環境はインターネットの普及と共に画像が氾濫しています。
この画像の情報は主に写真(カメラ視点)ベースです。
電子技術の進歩と同時に情報量は飛躍的に増えていって、今はVRが持て囃されています。
しかしこの情報と体験は実にプアで、決定的にリアリティに欠けているように思えます。
それはプログラムとかアルゴリズムが個人の体験に比べ限界があるからです。
いかにAIが進化しようとも、それは克服できない問題であり、逆に絵画の生命線はそこにあります。
例えば、髙馬さんの絵画です。
この絵画にある情報量は、意外にも膨大です。
一見単色に見える画面には作家の思考の軌跡で溢れています。
それは髙馬さんの生まれてから現在までの生きてきた軌跡が盛り込まれています。
そしてそこには、髙馬さん自身も憶えていないような、ものすごく小さな、取るに足らないような経験も含まれています。
ないしはそのような経験の積み重ねこそが、画面を構成している主な情報です。
それをこの空間で体験すること、それが即ち絵画にしかできない体験です。
そのための長椅子、と言うのは幾分穿った見方ですが、わたしは満更間違いでもないと思っています。
ご高覧よろしくお願い致します。
2000年藍画廊個展
2001年藍画廊個展
2002年藍画廊個展
2003年藍画廊個展
2005年藍画廊個展
2006年藍画廊個展
2007年藍画廊個展
2008年藍画廊個展
2009年藍画廊個展
2010年藍画廊個展
2011年iGallery DC個展
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2012年藍画廊個展
2013年藍画廊個展
2014年藍画廊個展
2015年藍画廊個展
2016年藍画廊個展
2017年藍画廊個展
「美」と「術」20032018年7月9日(月)ー21日(土)
日曜・祝日休廊
11:30amー7:00pm(最終日6:00pm)
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