藍 画 廊


高馬浩展
KOMA Hiroshi


高馬浩展の展示風景です。



画廊入口から見て、正面と右側の壁面です。
壁面の左から、作品タイトル「drape Y」で、作品サイズP20、
「drape G」で、P20、
「drape C」で、P6です。
台に設置された立体は、「peaks」(人造大理石)で、70(W)×75(D)×110(H)mmです。



入口横右の壁面です。
「Y渓谷夕景」で、P20です。


左の壁面です。
左から、「河畔」で、P100、
「器」で、P6です。

以上の七点が画廊内の展示で、その他道路側ウィンドウに一点、芳名帳スペースに一点の展示があります。
展示されている平面作品はすべて、キャンバスに油彩です。



左壁面の「河畔」です。
何とも言えない、高馬さん独自の色使いと描画法です。
画廊に入って見た瞬間は、微妙な色のフラットな色面に見えます。
しばらく眺めていると、画面のディテールが浮き出てきます。
風景のように見えますが、その奥にある何か、あるいは風景を支えている、何かのように見えます。



同じく左壁面の「器」です。
暗い色調で禁欲的な雰囲気ですが、実はそうでもありません。
キリッとしていますが、リラックスしています。
決して人を過度に緊張させるような絵画ではありません。



正面壁面の二点、 「drape Y」「drape G」です。
恐らく、掲載した画像と画廊で展示されている絵画の間には、大きな隔たりがあります。
それはどのような展示作品でも言えることですが、特にこの様な絵画では顕著です。
それをご承知の上で、記録としてご覧いただければ幸いです。



右壁面の「drape C」という小品ですが、珍しく縁が濃い色で描かれています。
それで、周囲の壁面を入れて切り抜いてみました。



入口横右壁面の「Y渓谷夕景」です。
展示作品の中では最も画面に変化が見られます。
具体的な景色を写したものかも知れませんが、それが主眼とは思えません。
問題は画面の中の状態です。



唯一の立体作品、「peaks」です。
人造大理石を使用しています。
この立体も、具体的な何かを写す(模す)ことよりも、状態に力点が置かれています。
これはこれとして存在していて、それ以外の何物でもありません。
存在の仕方、在り方が要であって、それは絵画も同じです。
そのような意味において、高馬さんの絵画と立体(彫刻)の間には何ら違いはありません。



説明になっていないような説明が続きましたが、もう少々お付き合い下さい。
わたしは戸惑っているわけではなくて、説明がヘタで、感想を上手く伝えられないだけですから。

画廊に一歩入ると、シンプルな美しい空間が広がっています。
色面のような絵画が六点と小さな立体が一点。
気取っているわけでもなく、馴れ馴れしいわけでもない。
そこにある空間が構成されていて、作品そのものと同じ感触を覚えます。
前述したような、適度な緊張と緩さに満たされた、空間です。
敢えて形容すれば、自然体とでも言えるでしょうか。

高馬さんの絵画、彫刻は、それらの形式、様式から外れていません。
キチンと守っています。
それが端正な佇(たたず)まいと節度を生んでいます。
しかし内容は、一般的な絵画、彫刻の概念と大きく異なっています。

高馬さんの表現は、何かを写していたり、模したりしていても、それ自体が目的ではありません。
抽象的な観念でもありません。
絵画や彫刻の形式、様式を使って、ある状態を作り出すことです。
ある状態は、常に動いていながら、常に安定しているような、状態です。
そのような状態を作り出すことに、高馬さんの表現があります。

ではなぜ、高馬さんは独自の様式なり形式で表現しないのか。
これはわたしの想像ですが、絵画、彫刻の強さを知っているからです。
それを逆に利用して、表現の強度を高めていると思います。

状態は、豊かです。
見れば見るほど、豊かです。
通りすがりでは、この作品の豊かさは分かりません。
身体を据えて、眼を作品に任せてみましょう。
そうすれば、本当の豊かさが表れるはずです。

ご高覧よろしくお願い致します。


2000年藍画廊個展
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「美」と「術」2003


会期

2008年9月1日(月)-9月13日(土)

日曜休廊

11:30am-7:00pm(最終日6:00pm)


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