藍 画 廊


瀬古徹
音なき簡(てがみ)
SEKO Toru

瀬古徹展の展示風景です。



各壁面の展示です。



画廊入口から見て、左側の壁面です。



正面の壁面です。



右側の壁面です。



入口横の壁面です。

以上の16点で瀬古徹展は構成されています。
作品の詳細をご覧下さい。



左壁面、左端、左から2番目の作品です。
左はタイトル〈a board no.199〉(Tempera on canvas on board)でサイズ125×177×7mmです。
右は〈a board no.189〉(Oil on canvas on board)で129×90×12mmです。



左壁面、左から3番目、4番目、右端の作品です。
左は〈a board no.206〉(Tempera on canvas on board)で143×135×7mmです。
中央は〈a board no.192〉(Oil on canvas on board)で90×87×12mmです。
右は〈a board no.200〉(Tempera on canvas on board)で186×86×7mmです。



正面壁面、左端、中央、右端の作品です。
左は〈a board no.198〉(Oil on canvas on board)で140×90×13mmです。
中央は〈a board no.208〉(Tempera on canvas on board)で175×151×7mmです。
右は〈a board no.204〉(Tempera on canvas on board)で135×108×7mmです。



右側壁面、左端、左から2番目、3番目の作品です。
左は〈a board no.20〉(Tempera on canvas on board)で160×100×9mmです。
中央は〈a board no.202〉(Oil on canvas on board)で223×179×7mmです。
右は〈a board no.201〉 (Oil on canvas on board)で185×96×6mmです。



右壁面、左から4番目、右端の作品です。
左は〈a board no.211〉(Tempera on canvas on board)で111×83×7mmです。
右は〈a board no.205〉(Tempera on canvas on board)158×110×9mmです。



入口横壁面、左端、中央、右端の作品です。
左は〈a board no.209〉(Tempera on canvas on board)で174×102×7mmです。
中央は〈a board no.203〉(Oil on canvas on board)で99×91×7mmです。
右は〈a board no.210〉(Tempera on canvas on board)で219×73×7mmです。

画廊壁面に瀬古さんのコメントが貼付されていますので、下に転載いたします。

 

音なき簡(てがみ)

私の作品は小さい。
拾ってきた、またはそのような板にキャンバスを施し、絵具で描画をし、壁面に点景のよ うに設置をし、大きな「余白」と共存させている。絵画ではあるが、純粋な平面ではない有様も手伝って、どこか、その文脈からずれている作品だと思っている。

博物館の展示物に、仏像と一緒に木簡が展示されていた。
それは過去の人々の情報や想いを記したはずのものだが、傷つき、朽ち、専門家以外には判読不可能な表層を有していた。
それを見た時、私は自分の作品がそこに漸近線の様に近づいていることを感じた。
勿論、 私の作品の古びた板の様相は元々“それっぽかった”が、そのことより、それが情報や想いの 記録を失っていることにそれを感じたのだ。
確かにそこには、メッセージのない(なくなった)「もの」が、存在していた。

私はずっと、「求めるが、ない」という在り方を意識して作品をつくっている。
あの木簡が時間をかけてそうなって行ったように、作品の周辺や、作品と作品との間、余白に漂うように求める「意味」が溶け出し、分解され、そこから生まれた微かなノイズの浮遊を感受できるかを、問題にしながら。

私の作品を説明するのならば、「空間を見せるための絵画」と言った方が的確かも知れな い。
それ以前、そこには「意識」などなく、それ以降そこには様々な「意味」が生まれて行くその初源的な役割を少しでも担うことが出来たならば、と思っている。

2018 年 12 月 10 日 瀬古 徹

あの東日本大震災の後、被災者が探し求めたものに家族の写真アルバムがありました。
泥だらけになったアルバムが発見された時、被災者の顔が一瞬明るくなったのをテレビで憶えています。
写真は記録、情報ですが、紙焼きはモノであり、それを収録したアルバムもモノです。
泥で汚れたアルバムや紙焼きは記録や情報であると同時にモノであり、それが分かち難くなったのが、あの震災です。

瀬古さんの作品は(取り敢えず)絵画です。
絵画も記録、情報ですが、絵具は物質としてのモノでもあります。
瀬古さんの絵画は、さらに支持体(キャンバスや板)をも含めて、記録、情報とモノを一体化しています。
それは被災地の写真アルバムのようであり、それと違うのは、最初から分かち難く在ることです。

可動な絵画としてキャンバスが普及したのは近代以降です。
それを(ギャラリー内などで)不動としたが、インスタレーションです。
空間としての、絵画です。
どのように鑑賞するか、あるいは体験するかが、予め設定されたものです。

瀬古さんの絵画は、空間の中でひっそりと存在しています。
主張というものを控え、モノとして佇んでいます。
あたかも愛用している古びた湯のみ茶碗のように、いつもそこにあるのですが、必要以上に主張しない。
だけど、わたしの生きている環境や空間には欠かせない。

小さな絵画で、主張が少ないにもかかわらず、強い絵画です。
モバイルな小ささですが、決してどこでも良いわけではありません。
場所を選ぶのです。
そして場所に馴染むと、時と共に環境になって、わたしの日常の美になっていくのです。

ご高覧よろしくお願い致します。

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会期

2018年12月10日(月)ー15日(土)
11:30amー7:00pm(最終日6:00pm)


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