藍 画 廊


山内賢二展
ふいっち

YAMAUCHI Kenji


山内賢二展の展示風景です。



各壁面の展示をご覧下さい。



画廊入口から見て、左側の壁面です。



正面の壁面です。



右側の壁面です。



入口横の壁面です。

以上の9点が展示室の展示で、その他小展示室に1点の展示があります。
作品はすべてパネルに綿布、アクリル絵具を使用しています。
作品の詳細をご覧下さい。



左壁面、左端の作品です。
タイトル「かえれない」でサイズ910×910mmです。



左壁面、中央と右端です。
左は「cage」で606×500mmです。
右は「曇天」で606×500mmです。



正面壁面の作品です。
「テレヴィジョン」で1455×1455mmです。



右壁面、左端、左から2番目、3番目の作品です。
左は「D(a)ystopia」で530×455mmです。
中央は「Harvest」で410×273mmです。
右は「ブックエンド」で410×273mmです。



右壁面、右端の作品です。
「小雨」で1940×1303mmです。



入口横壁面の作品です。
「ウシロマエ」で530×455mmです。

〈作家コメント〉

意識/存在、既視感/未視感、主観/客観、地/図などなど。
これらの「あいだ」に介在し、決定へと導かれる条件を問い直す事。
取るに足らない日常の断片を画面上に集め、再構成することによって、
自明化した言説や制度、一義的な読解を不可能にする事を目指している。
例えば、それは「間違える」ことをよしとしない社会の不寛容さを解きほぐす為。
或いは「曖昧なものがあるからこそ、確かめたくなる」という心理を呼び覚ます為。

その昔、印刷がまだ普及をしていない時代、画像というものはそう目にするものではありませんでした。
紙に直接描かれた絵は権力者階級以外には縁遠いものでした。
では何で情報を得たかと言えば、自分の眼で見た世界からです。
それと、聴覚、触覚、嗅覚、味覚で捉えたものです。

時代が進み、写真が発明され、新聞や雑誌が発行され、テレビが生れ、インターネットが普及する。
そして今は、SNSによって視覚情報が拡散され、インスタ映が全盛になります。
画像はあらゆることろに表示され、あらゆる機器、デバイスによって否応なく目にすることになります。
それらの視覚情報の基(ベース)になっているのは、写真です。
動画も静止画の連続ですから、世の中に溢れている画像のほとんどのソースは写真と言うことができます。

さて、そこで絵画です。
そもそも絵画は直接目が世界と対峙することによって生まれました。
それが写真の発明によって、見えない世界、世界の内側に向かうことを余儀なくされました。
しかし山内さんはあえて大量生まれ、大量に消費される(写真を基にした)画像をモチーフとしています。
これは事態が一回転して、絵画の存在理由を絵画を駆逐したものに求めていることになります。
それ自体は珍しことではありませんが、その表し方は独自でかつ意味深い。

話が変わります。
絵画とは描画によって思考した結果そのものです。
絵具と絵筆とキャンバスで思考する技であり、術です。
一方(写真を基にした)画像は情報に徹していて、格別に考える必要がありません。
つまり、考えることとは異なるベクトルにあるものなのです。
そういった画像が氾濫する世界とは、考える事を不必要にして、情報、データーを有効に活用する世界なのです。

山内さんは絵画で思考します。
考えることを放棄しません。
ハイコントラストに単純化されケージや檻が目立つ画面は、実は意外に複雑で、テクスチャー(表面の質感)は豊かです。
チープな画像をリッチな絵画に変換し、そこに思考の軌跡を残します。
この世界で生きていることの意味を問い、考えることの意味を問います。
自分で考えること=絵を描くこと、それこそが山内さんの絵画の核心ではないかと、眼の前の作品を見てわたしは確信した次第です。

ご高覧よろしくお願い致します。


プライスリスト

2010年藍画廊個展
2011年藍画廊個展
2012年藍画廊個展
2013年藍画廊個展
2014年藍画廊個展
2015年藍画廊個展
2016年藍画廊個展


作家Webサイト

2018年5月14日(月)ー19日(土)
11:30amー7:00pm(最終日6:00pm)


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