瀬古徹展
The Physical
SEKO Toru
2014年度最初の展覧会として、瀬古徹展を開催致します。
本年も藍画廊をよろしくお願いいたします。瀬古徹展の展示風景です。
各壁面ごとの展示をご覧下さい。
画廊入口から見て、左側の壁面です。
正面の壁面です。
右側の壁面です。
入口横の壁面です。
以上の10点で瀬古徹展は構成されています。
作品はすべてボード、キャンバスに油彩です。
作品を1点づつご紹介致します。
左壁面、左端の作品です。
タイトル「a board no.86」で、サイズ9.0(H)×8.1(W)×5.0(D)cmです。
左側壁面、左から2番目の作品です。
「 a board no.93 」で11.8×7.7×3.5です。
左壁面、左から3番目の作品です。
「a board no.82」で8.7×8.3×4.8です。
左壁面、右端の作品です。
「a board no.94」で8.5×8.4×5.0です。
正面壁面の作品です。
「a board no.81」で11.0×8.2×5.0です。
右側壁面、左端の作品です。
「a board no.95」で8.1×8.2×5.9です。
右側壁面、中央の作品です。
「 a board no.88」で8.4×7.1×4.2です。
右側壁面、右端の作品です。
「a board no.83」で11.8×7.7×3.7です。
入口横壁面、左端の作品です。
「a board no.87」で9.5×8.2×5.1です。
入口横壁面、右端の作品です。
「a board no.90」で8.9×8.2×5.1です。
画廊の小展示室の壁面に瀬古さんのテキストが貼付されています。
全文を転載いたします
The Physical未だ現象を超えず。
私の作品は何かの意味を導き出す道具のようで、
そうあって欲しいと望んでいるが、
私の意志に反して、それは捕えることのできない生き物のように、
手元をすり抜けて行く。
絶えずそこに居たのかという驚きと虚脱感が襲いかかり、
その度に私は黙らされてしまう。
少し考えることを諦めよう。
私に主導権はなく、 作品を物質化している支持体そのものをモチーフとしながら、
ただ“空間・時間の中に形をとって現れるもの(-※)”を
選んでいるに過ぎないのだ。
私はそれを、生きている私を囲む壁面に標していく。
それによりその壁面は辛うじて作品となるのだが、
何かを意味する場所には成り得ていない。
そう、この辺りをうろついているのだ。※-広辞苑 岩波書店
2014.1.6 瀬古 徹
瀬古さんの「a board」シリーズは不定形のボードに麻布のカンヴァスを貼り、油彩で描く作品です。
しかしそのカタチと画面は変化し続けています。
今回の展示、カタチは六面体の様相を呈し、厚みが大幅に増しています。
画面もストライプと格子を基調としたものに変わっています。
瀬古さんの作品は一見するとインスタレーションの作品に見えるかもしれません。
絵画としてはあまりにも小さい物体と、緊密に計算されたように思える配置。
しかし作品はあくまで絵画であり、安易なインスタレーションとは一線を画しています。
絵画が場とどのように対置するか。
そこに作品の秘密が隠されているように思えます。
さて、場とは何でしょうか。
近代的なギャラリーというシステムの中に配置された作品。
そのような場を、瀬古さんの作品は拒否しています。
日常の、生活の場から生まれてくるもの、それを大切にして作品を制作しています。
近代というシステムは、ホワイトキューブという場を提出しました。
その中で美術家は格闘することになりました。
でもある時、気がついたのです。
ホワイトキューブという場にこそ、問題の本質があることに。
瀬古さんの作品を見ていると、アルタミラの洞窟壁画を思い出します。
あの原初の美術(絵画)は場と密接に繋がっていました。
場の中で、標として機能していたのです。
瀬古さんの作品も同様です。
場の中で、日常の、生活の場の標として表されているからです。
近づくと、息をのむように美しい絵画作品。
そのミニマムなサイズが見せる多用な表情。
そして、距離を取って場を眺めれば、そこには標としての美術(絵画)が存在している。
日常の、生活の、それらが必要とする場の標として。
ご高覧よろしくお願い致します。
2003年藍画廊個展
2009年藍画廊個展
2010年藍画廊個展
2011年藍画廊個展
2012年藍画廊個展
2013年iGallery DC個展
会期
2014年1月6日(月)ー1月18日(土)
12日(日)、13日(月)休廊
11:30amー7:00pm(最終日6:00pm)