早いもので、iGalleryを開設してから三年半が経ちました。
興味の赴くままに更新を重ねてきました。
Webページ(ホームページ)を立ち上げるのは思っているより簡単なのですが、コンスタントに更新を続けるのは意外に難しいものです。
ネタが尽きてしまうのですね。
わたしには空想、妄想癖があります。
こういう人はネタが尽きない。
ロクでもないことを考え続ける能力(?)があるからです。
ですから、とりあえず更新を続けられます。
でもそれ以上に、更新を続けられる重要な要素があります。
Webページの核があるかどうかです。
わたしの場合でいえば、美術です。
どちらかといえば上記の性格的なものよりも肝要です。
これは最初から分っていたのではなく、サイトを開設してから気が付いたことです。
iGalleryには「藍画廊」というコンテンツがあります。
藍画廊は東京京橋にある画廊で、わたしの妻である倉品が運営しています。
藍画廊の展覧会案内を載せ始めたのは、サイトの開設から暫くしてからで、それも不定期のアップロードでした。
今は定期で掲載していますが、後発にもかかわらず更新回数ではこのコンテンツが最多です。
展覧会は基本的に一週間のサイクルで変わりますから、多いのは当然といえば当然です。
このコンテンツだけでも月に四回程度は更新します。
「藍画廊」以外のコンテンツはわたしの趣味の範疇ですから更新は自由です。
「藍画廊」に関しては仕事が半分入ってます。
別に倉品に命令されたわけではなくて、自分で決めた仕事です。
(一応わたしは藍画廊の関係者ですから。)
仕事ですからサボるわけにはいかない。
毎回毎回アップロードします。
でも、この仕事は興味深い。
なぜ興味深いかといえば、わたしが関係者という曖昧な立場だからです。
もし完全な画廊の人間だったら書く内容が制限されます。
画廊という立場から書かなくてはいけません。
わたしは画廊の人間でもあり、外部の人間でもあります。
週に一度しか顔を見せないヘンな人です。
画廊の実務はほとんどしていない、関係者というヘンな人です。
関係者というヘンな人が画廊の案内を書くと、そこに感想というものを滑り込ますことができます。
画廊の人にはこれは書けません。
画廊の人が感想を書いたら、ヘンです。
画廊の人は情報提供とプロモーションに徹しないとダメです。
関係者はあくまでも関係者ですから、批評は書けない。
関係者が書けるのは、感想です。
だから、自由に書けるし、私見でも構わないのです。
(感想って批評より下位に見られますが結構面白いし、奥が深いですよ。)
というわけで、わたしはわたしの感想を毎回書いています。
(まぁ、的外れな感想も多々あると思いますが。)
感想を書くために、作家の方にできる限りお話を聞きます。
インタビューみたいなものですが、作家の方は親切に対応してくれます。
インタビューでわたしが一番知りたいのは、なぜこの作品を創ったのかということです。
最も答えにくい部分であり、作家にとっては最も話したい部分です。
そこからわたしと作家の対話が始まります。
その対話は、家に帰ってWebページを作り始めると、わたしとわたしの対話に変化します。
感想、ですね。
そうやって、「藍画廊」は現在百十六回の更新を続けています。
これは延べですから、実際に掲載した作家の方の数は三分の二以下だと思います。
この対話の集積からわたしが感じたこと、これが今回の研究です。
ズバリ、美術の研究です。
美術を為す人、その人をここでは仮に美術家と呼びます。
美術家は社会にとってどういう存在なのでしょうか。
「分けの分らない人」、多分そうだと思います。
「何をしているのだか分らないが、絵のようなものを描いているらしい」人です。
上の「何」は、職業を指しています。
「職業は何だか分らないが、絵を描いているらしい」人です。
もし美術家が美大教授であったなら、「美術大学の先生をしている偉い絵描きさん」になります。
そうなると社会はとりあえず低姿勢になりますが、本心はやはり「分けの分らない人」です。
崇められるか無視されるか、どちらにしてもあまり関わりのない人、それが社会にとっての美術家です。
銀座のバーで得体のしれない客の一部は、ホステスに「こちら芸術家の方?」と遇されます。
そういわれて喜んではいけません。
銀座のバーは表裏含めて権力構造に依拠していますから、「こちら芸術家の方?」は問題外の人という意味です。
銀座のバーには日本画壇の重鎮など、美術の権力構造の範疇の人も客ですが、その人に「こちら芸術家の方?」とは絶対いいません。
銀座のバーのホステスはプロですから。
つまり、風体がカタギ(ヤクザ)ではない変わった客に対するホステスの対処法なんですね。
「こちら芸術家の方」は。
銀座のバーに出入りしているような書き方をしましたが、わたし自身はホステスの居る銀座のバーには行ったことがありません。
もしわたしが行ったのなら、間違いなく「こちら芸術家の方」といわれると思います。
まぁ、そういわれたら「芸術関係です」と訂正しますが。
(ハッキリいわないで、〜関係と言葉を濁すのはもっと怪しいですね。)
絵を描くという行為はごく普通のことです。
小学校、中学校では美術の時間に誰でも絵を描かされたと思います。
授業でなくても、イタズラ書きをノートの端に描いた記憶はありますね。
イタズラ書きだって、マンガのコピーだって、立派な絵です。
そのごく普通のことが、職業的になると「分けの分らない人」になってしまいます。
それは、豆腐屋が豆腐を作るのと美術家が絵を描く違いです。
豆腐屋は食品を作り、その食品とは人間にとって必要欠くべからざるものです。
美術家の描く絵は、・・・・。
この「・・・・」の部分が不明なんですね。
どう役に立つのか分らない。
せいぜい「綺麗だからインテリアに良いかもしれない」、ぐらいです。
どうしてなんでしょうかね〜。
不思議ですね。
「絵が売れないから」。
現代美術では、一つの正解です。
需要がなくて供給過多で、市場が成立しない日本の現代美術には当てはまります。
でもヒロヤマガタの絵は物凄く売れているし、前述した画壇の重鎮なんかは所得番付に載るほどの収入があります。
(ヒロヤマガタの絵と貴方が授業中に描いたイタズラ描きを比べれば、描きたいものを描いた貴方の絵の方が断然素敵です。)
でも、売れる売れないは商売の方法だったり、財産の運用だったりして、一般社会や普通の人にとってはほとんど縁がありません。
その点では現代美術も日本画も同じです。
(重鎮が銀座のバーで優遇されるのは、金持ちで、権力のアクセサリーだからです。)
生活と関わりがないんですね。
もちろん、美術愛好家やコレクターといった美術を必要とする人々もいます。
しかしその数は本当に微々たるものですし、社会という大枠から見れば無視されてしまいます。
必要欠くべからざるものにはならないのです。
美術、美術家の立場は一体どこにあるのでしょうか。
わたしは今、現代美術の関係者という立場でこのテキストを書いています。
他のジャンルの美術の詳細には不案内です。
でも書こうとしている内容は美術全般を対象にしています。
けしてマイナーな一分野のことを問題にしているのではありません。
それを前提にお読みいただきたいと思います。
さて、美術、美術家の立場ですね。
それがどこにあるか。
答えは、無いです。
と言い切る自信もないので、ほとんど無いです。
現代ほど美術、美術家が冷遇されている時代はありません。
これは残念ながら事実です。
この事実を踏まえないと、何事も先に進まないでしょう。
では、立場があった時代はいつなんでしょうか。
少なくとも、江戸時代まではありました。
その時代は美術家ではなくて、職人という名前でしたが。
絵を描く職人でした。
豆腐屋と絵を描く職人は同列で、今のような違いはありませんでした。
オレの豆腐が一番旨いと、オレの絵が一番上手いはいわば同列でした。
社会が必要としているから職人は存在し、職人はその自覚の上にプライドを持っていました。
美術の職人の造るものは、今では一まとめにして工芸と呼ばれています。
日常生活に必要な品々の装飾、権力者の権勢を誇示する調度品、宗教の重要な備品等々です。
又、浮世絵に代表されるコマーシャルな絵の職人や、民俗的なローアートの職人もいました。
いずれにしても、職人です。
職人が、職人と美術家(芸術家)に分化したのは明治以降。
芸術の誕生です。
西欧近代の流入です。
ではなぜ明治以降多くの絵を描く人の立場が無くなったかといえば、西欧近代が生活と切り離して芸術にしたからです。
格(?)を上げてくれたのですが、そのかわり生活とは関係なくなりました。
(西欧近代と美術の関係については、「iの研究」の<難解の研究>(1)(2)(3)をお読みいただけば幸いです。ただし、今回の論考とは矛盾している点もあります。)
わたし達の生活はおおよそ西欧近代の上に成り立っています。
おおよそですから、それ以外のものもあるわけです。
それ以外のものについては後で触れますので、まずは西欧近代について考えてみます。
人間には想像力というものがあります。
(ここでいう想像力はできるだけ広い意味で考えて下さい。)
わたしは想像力こそが、人間を人間足らしめていると思っています。
人間は動物ですが、想像力を持った動物です。
その人間の想像力の最高の叡知が西欧近代といわれています。
いっているのは、当の西欧近代です。
(当事者は想像力ではなく、科学=真理といっていますが。)
本当でしょうか。
わたしは、疑っています。
なぜなら現代の便利で快適だけれども、悲惨な生活を肯定できないからです。
悲惨な生活とは、自分がどこに立っているのか分らない、基盤を失った生活のことです。
社会全体がホームレス状態のことをいいます。
生活が流されていて、どこに行き着くのか分らない不安な状態をいいます。
悲惨な生活の源を考えていくと、西欧近代にぶつかります。
想像力の誤謬がどこかにあったとしか思えません。
どこかで決定的な間違いを犯したのです。
格上げされた美術は、文化と呼ばれる範疇に入ります。
文化というのも分ったようで分らない言葉です。
文化人。
何か胡散臭いでしょ?
現代美術の大きな国際展にイタリアのヴェネチア・ビエンナーレがあります。
1895年に創設された最も権威ある大規模な国際美術展、です。
ビエンナーレですから、二年に一回開催。
美術のオリンピックともいわれています。
この展覧会のシステムを見ていると、西欧近代の文化の内容が分ります。
オリンピックに喩えられるように、この展覧会は国別のパビリオンに分れています。
そして競技のように優秀作家が選ばれます。
又、ビエンナーレは見本市でもあって、各国のディーラーの商行為の場です。
ビエンナーレには世界中から美術関係者が集まりますが、それ以上に集まるのが観光客。
ヴェネチアは観光都市ですから、観光の目玉が常設以外にも必要なんですね。
(ヴェネチア映画祭も同じです。)
現代の国家は国民国家と呼ばれ、端的にいえば民族と文化を同一にする共同体とされています。
ところが実際は、少数民族や異文化(異宗教)を強制的に併合した国家がほとんどです。
日本も例外ではなく、アイヌや沖縄を併合した歴史を持っています。
朝鮮や満州国を併合して、日本といっていた時期もありましたね。
国民国家は自明のものではなくて、創作された概念です。
フィクションなんですね。
だからその矛盾が吹き出して、世界中で民族、宗教紛争という名の綻びが出ています。
何でそんなものが創作されたかといえば、西欧近代の都合なんですね。
市場経済とか、いろいろな都合で創作された概念が国民国家です。
都合でできた国家に分れて美術を競う。
美術を競ってどうするんだ、という疑問もありますが、それはさて置きます。
問題はそこに国家の威信やらマーケットの思惑が働くことです。
マーケット、つまり美術は商品であり、ビエンナーレは先ほども書きましたように見本市でもあります。
取引があるわけですね。
そうなると国の威信とは別に、画廊なりディーラーなりの思惑もあるわけです。
それは当然コンペに反映されます。
作品の優劣にマーケットが絡んできます。
(コンペやマーケットを意識した作品を出品する作家もいます。)
作家を選考するのは各国のコミッショナーの権限です。
数回前のビエンナーレで意外な人選があり、物議を醸し出したことがあります。
この時のコミッショナーは、欧米のアッパー(上流階級)に顔が広いということでコミッショナーに選ばれたようです。
政治力のある人、という意味ですね。
ビエンナーレの構造から見れば批判しても意味がないし、かといって黙認するのもシャクな一件でした。
ともあれ、ビエンナーレが始まると世界中から観光客が押し寄せます。
物見遊山ですね。
物見遊山自体は否定しません。
気晴らしに見物や遊びに行くことは必要です。
しかし、文化、美術が単なる気晴らしの対象であっていいのかとなると、話は別ですね。
もちろん、そういった諸々のビエンナーレの在り方に疑問を投げ掛けた作品も出品されますし、会場の内外でゲリラ的に作品を展示する作家もいます。
それらも取り込んで、ヴェネチア・ビエンナーレという展覧会は成り立っています。
<第六十五回終り>
<美術>の研究(2)に続く