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iの研究


第九回 <難解>の研究(3)


さて、「前衛」です。
「現代美術」は、かつて
「前衛」美術とも呼ばれました。
(今でも呼ばれているかもしれない。)
「前衛」であることを前提とした美術、という意味ですね。
<難解>の研究(1)、(2)でいわば<難解>の背景を探ってみました。
今回はその中心を研究します。

「前衛」、これは一時死語でした。
最近復活したようです。
わたしが若者だった60年代末は
「前衛」が大活躍した時代です。
あらゆるジャンルで
「前衛」が流行りました。
アングラ(アンダーグラウンド)なんて言葉もありました。
つまりは、表現形式が内容に伴わなくなってきた、そういう時代(事態)だったんです。
表現したい内容にふさわしい形式を模索する為にとりあえず今ある形式の破壊に奔った、そうも言えますね。
それで、その時代は優れた表現の宝庫であったかというと、そんな事もないとわたしは思います。
優れた表現はいつの時代も一定量しかない、とわたしは思っています。

もし、あの時代で重要なことがあったとしたら、形式の見直しが世界的な規模で起った事です。
(換言すると「近代」の見直しが大きな規模で起きたという事になります。)
それと、政治制度(形式)に対する破壊行為が文化のそれとリンクしていた事。
政治の
「前衛」とはマルクス主義政党の事です。
党派性のない団体ももちろん多かったのですが、やっぱりマルクスでした、あの時代は。
「前衛」「前衛」がカオス状態でこんがらがった面白さはありました。

と、他人事のように言ってるわたしは何処にいたのか?
外れにいました。
中心にいた「バカ」をやる人とは違うところで、「バカ」をやってました。
(今思うと「バカ」をやりたくて「バカ」をやっていたホントの「バカ」でした。恥ずかしいことです。)
これは言い訳になりますが、「バカ」が許される立場にいる若者でそれをしない人はツマラナイと思います。
「バカ」は、ある種若者の特権だと思います。
「ガン黒」も「バカ」で良いと思います、わたしは。

話がズレそうになってきたので軌道修正。
もちろん
「前衛」が60年代末の現象というわけではなくて、古くは印象派も「前衛」であったわけです。
「前衛」にも歴史があるわけです。
たまたま近過去でそれが爆発した時代が60年代末であったと、それを書きたかったワケです。




印象派の時代には確固たる主流がありました。
印象派は、それに対する
「前衛」です。
そして、印象派が主流になりました。
美術史の本を見れば、印象派は主流ですよね。
そういう軋轢が日本の現代美術にはなかった、と言われています。
主流が無くて、
「前衛」のスライド(時間差)輸入の歴史が戦後の美術史であると。
間違いではないと思います。
わたしがそこで気になるのは、
「前衛」のサイクルが非常に短くなっているという点です。
戦後の西洋美術の本場はアメリカです。
アメリカにおける
「前衛」の登場は、時代が進むにつれて頻繁になっていった気がします。
(背景には市場の意向もあるのではないかと推測します。)
それにつれて日本も
「前衛」の輸入に忙しかった、解釈しているヒマがなかった、というのもあったと思います。

ところで、
<難解>といわれる現代美術の、その<難解>の基を作った「前衛」は何処にあるのだろうかと考えてみました。
どうも、デュシャンの『泉』あたりではないかと、わたしは見当をつけました。
「前衛」はもともと<難解>を伴います。
印象派だって、最初は全然理解されませんでしたもんね。
慣れ親しんだ形式を外されると人は困惑するものです。
取っ掛かりがないもんですから、「これは何だ?」になります。
『泉』の「これは何だ?」は、それがありふれた便器だったからです。
便器を会場に置いただけ。
それが、作品。

ここでの
「前衛」は、作家は作品を作る人という形式の破壊、展覧会場に持ち込んで作家がサインすればどんなものでも作品として成立してしまう美術の制度にたいする懐疑。
この作品以降、作品に「自己言及」という要素が入ったと思います。
(それ以前にも「自己言及」的な作品はあったでしょうが、エポック・メーキングな作品はこれだと思います。)

「自己言及」とは、自分のやっている事について作品の中で触れるという事です。
『泉』を例にとれば、作品に不可欠であった技術(手技)の「縛り」に対して、レディメイド(既製品)を作品として提出する事でそれに言及しています。
「作品とは何であるか? 作品とは一体何によって規定されるのか?」という自己言及が、作品に含まれています。



わたしは時々考えます。
「現代美術」とは何だろうか?
「現代美術」を「現代美術」にしている要素とは一体何なのであろうか。
わたしの中には、「現代美術」とそうでないものの区別があります。
しかしそれを分けているものの正体がなかなか明確にできません。
「現代美術」を扱った本を読んでも、解ったようで解らない説明ばかりです。
それはもしかしたら、「精神の運動」の様なものかもしれないと考えました。
作品の中に含まれていて、それと一体になっている「精神の有り様」。
「自己言及」、それがその正体ではないかとわたしは思いました。
「現代美術」は十分に複雑なものです。
ですから、一つの要素でそれを規定するのは難しいと思います。
でも、わたしの好きな作品達を結ぶ何かがあるはずです。
「現代美術」とは「現代美術とは何であるか?」という「精神の働きかけ」を有するもの。
それは一つの答えになると思います。

これは
<難解>だと思います。
上の答えも解ったようで解らない答えです。
本体が
<難解>なら、解説も<難解>になってしまいました。
「自己言及」とは何なんでしょうか?
それは、「観念」あるいは「観念の運動」とでも言えるものだと思います。
つまり、それは「具象」とか「抽象」といったような分類でも形態でもないのです。
ココに「自己言及」がある、と指させるようなモノではないのです。
「精神の有り様」、あるいは「精神の働きかけ」が「自己言及」なのです。

『泉』系の作品は、コンセプチュアル・アートと言われています。
観念芸術、概念芸術とか訳されます。
現代美術の一つの流れです。
でも、わたしはそれは一つの流れ(系統)というものではなくて、現代美術の根底にその考えがあると思っています。
形式、制度に対する懐疑を常に持ち続けることによって今日性を獲得する、それが「自己言及」であり、「現代美術」を「現代美術」たらしめているものだと思います。

人が作品と対峙する時、人は形式を拠り所にします。
そこから中身に入っていくわけです。
「遠山の金さん」だったら、江戸時代という舞台設定が形式です。
そこから
<事情>という物語に入ります。
安心して入っていけるわけです。
ところが、「現代美術」はその拠り所をいきなり取っ払ってしまいます。
「お約束」が通じない世界です。
しかも、作品と作家の関係が掴めない。
作品とは、作家が長い年月をかけて研いた手技に裏打ちされたモノ、それが世間の一般的解釈です。
展覧会場に便器がゴロンでは、途方に暮れてしまうでしょう。
やっぱりね、そう思います、わたしでも。

「現代美術」が全て
<難解>というわけではありません。
取っつきやすく、親しみやすいものもあります。
しかし、人は
<難解>だと言います。
その大きな要因は「自己言及」ではないでしょうか。
それが、「精神の働きかけ」といったような掴み所の無いものだけに
<難解>でもあり、面白くもある。
又、ヘタな「自己言及」は「野暮」になってしまいます。
形式を甘く見ると簡単に跳ね返されてしまいますね。
形式とスリリングな戦いをしながら、「野暮」に陥らない作品、
わたしが好きな作品はそんな作品です。



「自己言及」は、今日性の獲得と共に表現の多様性をもたらしました。
形式と制度を疑い、更新しつづけると、当然枠が広くなって今までは美術の範疇でなかったジャンルも中に取り込みます。
パフォーマンス、写真、マルチメディア等々です。
活性化ですね。
外部の力の注入です。
非西欧世界の美術やサブカルチャーの取り込みも活性化です。
これは言葉を換えると延命ということにもなります。
さて、命が残り少なくなったので、外部の血(知)を注入せざるを得ないモノとは何でしょうか?。

ここからは、番外です。
わたし自身にも良く解っていない考察です。
そのつもりで軽く読み飛ばして下さい。
(しかし、長くなったな〜。もっとスマートにキメたかったんだけどねぇ。ここまで読んでいただいた方には感謝します。もうちょっとですからガマンして下さい。)

そのモノとは「西洋の知性」ではないでしょうか。
「近代」は「西洋の知性」の産物です。
そして、「近代」は「自己言及」という「観念」=「精神の働きかけ」によってその制度を維持し、更新しつづけるものだと思います。
(「近代」は、宗教にかわって思想、芸術、科学等が共同体の進むべき道を模索すると、
<難解>(1)でわたしは書きました。)
しかしながら、「自己言及」には大きな落とし穴もあります。
それは、「自己言及」自体が形式だという事です。
つまりは、
「前衛」「前衛」という形式でしかなかったという事です。
その時に
「前衛」は死語となりました。
そしてそれを復活させたのは、例のポストモダンです。
ポストモダンは形式の引用を作法としています。
「前衛」も一つの形式として引用されます。
それによって「自己言及」の袋小路から脱出をはかりました。
でもですね、わたしはポストモダンも所詮は「自己言及」ではないかと思ってます。
言わば、どこまでいっても形式を引用する形式でしかないと。
ポストモダンではなくて、限りないラストモダン。

「西洋の知性」が終焉に向かっているのか、すでに命脈が尽きているのか解りません。
「20世紀の知」というものがあったとしたら、それは「西洋の知」だと思います。
もちろん、それが人間にとって有効な「知」であったかどうかは別問題です。
わたしが生まれてから今日まで、最も影響を受けた「知」はやはり「西洋の知」です。
「西洋に知」の中心には「自由」があったと思います。
「近代」は、突きつめると「自由」に対する「観念」の歴史かもしれません。
それに牽引力がなくなったら、「現代美術」も終わりという事です。
わたしは「現代美術」が好きですが、それでも良いと思ってます。
「自己言及」が力を失った「現代美術」は、「現代美術」とは呼ばれないでしょう。
「自己言及」を乗り超えて「今日性」を獲得したものがその後に座るでしょう。
そして、それは
<難解>ではないかもしれません。
わたしは、それの方が良いと思います。
別に
<難解>がエライわけではないのですから。

<難解>の研究が<難解>になったらシャレにならないな、と思って書き続けましたが、危惧が的中したようです。
力不足です。
機会を改めてチャレンジしたいと思います。
次回の研究は、全然別方面を予定しています。
アッチ方面です。
では。

<第九回終わり>




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