現代美術は<難解>だと言われている。
それは間違いない事実である。
緊張しながら画廊に足を踏み入れた人が、無愛想に置かれた作品の前で「途方に暮れる」のをわたしは何回か目撃している。
わたしは一応クロートである。
が、解らない作品はイッパイある。
ましてやシロートの方々には、ホント<難解>な世界であると思う、現代美術は。
もちろん例外はあるが、ここで語ろうとしているのは一般的かつ本質的な話である。ではどーして<難解>なのか、わたしなりに考えてみました。
まずは現代美術の成り立ちから探ってみよう。
現代美術はもともと西洋美術であって、そもそもの文化的背景が違います。
文化的背景が違うと言う事は、世界観が違うということです。
簡単に言っちゃうと、「信じているもの」が違うのです。
世の中はどうなっているのかとか、死んだらどうなるのとか、生きていくうえで必要な「信じているもの」が違う。
普段はそんな事を意識しないのだが、それが無いと生活できない。
ベースになっているのは、宗教。
西洋はキリスト教、日本は神道、仏教がベースになって「信じているもの」を形成しています。
外国に行って受けるカルチャーショックは、「信じているもの」が違う事によっておきます。なおかつ西洋美術は、メインカルチャーです。
王族、貴族あるいは宗教のお抱え職人が制作したものが、「近代」以前の西洋美術。
つまりアッパーな階級のモノであり、それ以下の人々が所有する事はまず無かったでしょう。
余裕がないとメインカルチャーは成立しません。
「ヒマ人」がいないと駄目なんである。
ここでの「ヒマ人」はアッパーな人たち関係者。
ここ、重要です→「ヒマ人」。さて、「近代」になると中産階級というものがアッパーの仲間入りをする。
新興ブルジョワジーとかいわれる階級ですね。
中産階級と言っても、日本で今言われている中産階級とは違います。
資本家、会社経営者等です。
金持ちです。
ここの「ヒマ人」が芸術を支えます。
今日的な意味での芸術、これが生まれたのも「近代」です。
基本的に、個人がクライアントの依頼からは自由に表現活動をする、それが芸術。
以前はクライアント(アッパー階級)からの注文仕事でしたから、基本は職人でした。
そして徐々にアッパーの主流は中産階級に移っていきます。
ここで「ヒマ人」の考察。
金持ちの家だと、芸術にうつつを抜かす人間を養う余裕があります。
余裕があるから、生産活動から離れる人間がいても構わないわけです。
又、「近代」は宗教とは一線を引いた社会ですから、新たに「信じているもの」を構築しなければ困るわけです。
具体的に言うと、キリスト教は個人の趣味趣向になって、科学とか思想とか芸術がそれに替わるわけです。
共同体の進むべき道を「ヒマ人」に考えてもらうわけです。
(これは前近代もそうだったんですが、宗教という枠がカッチリありましたからかなり違う。)
そしてですね、「ヒマ人」とういうのはどういうわけか社会に適合できない人が多い。
適合できないから「ヒマ人」なんでしょうね。
どちらかと言うと。
社会の中にいると社会が見えない、社会の外にいると社会が見える。
そういう訳です。
「ヒマ人」=社会に適合できない人=アウトサイダー。
いわゆるアウトサイダー・アートもインサイダー・アートもないわけです。
全部、アウトサイダーアート。
わたしの理屈ではね。
ともかく、「ヒマ人」は「近代」にとっては必要な人間なのです。
生産活動が駄目な人間も、「近代」は必要としています。
(わたしは自分で言って、自分で安心しました、何故か・・・。)
さて、もう一つ重要なこと。
「近代」は近代的「都市」というものを生みました。
産業革命があって、労働者階級が「都市」に住みます。
「近代」は「都市」の時代と言ってもいいでしょう。
共同体が、地縁、血縁から離れて、「都市」という形で形成される。
寄せ集めの共同体ですね。
労働者は寄せ集めですから。
(「近代的都市」の起源はギリシャ文明の「都市」にあると思いますが。)
芸術は当然「都市」を出生とします。
「近代」=「都市」→芸術です。
ですから、近代美術は「都市」の芸術であり、近代美術の現在形である現代美術は、もちろん「都市」の芸術であります。
けっしてイナカの芸術ではありません。
イナカに住んでいる現代美術家の作品も「都市」の芸術、
ここを間違えないようにして下さい。
「都市」化の進んだ国は先進国、遅れている国は後進国。
そうなんですよ、ただそれだけです、先進国の意味は。
別に「都市」化がエライわけでも何でもない。
エラクもないのに、エライと思って、後進国のことを発展途上国とか言い換えるんですね。
一応謙遜して。
バカですね。
わたしは「都市」は好きだが、イナカよりエライとは思わない。
バカな白人はそれが解らない。
(あっ、リコウな白人もいますね、失礼しました。)
話が脱線したが、現代美術が欧米が中心なのは「都市」化の進行具合にポイントがあるからです。
これは、後述する市場(マーケット)の問題にも係わり合います。
ここまでをまとめてみると、
現代美術は西洋美術であり、とりわけ近代美術と関係が深い、
そして「都市」に住む「ヒマ人」がその中核をになっている、
こうなりますね。
「ヒマ人」は暇ですから、考えがどうしても「抽象」的になる。
ではなくて、個々の個人すべての共通の問題を考えなければならないから、「抽象」的になるわけです。
人間一般の悩みとか問題とかね。
宗教に替わって、「ヒマ人」がその仕事をします。
そうなると具体的な<事情>からは離れていきます。
やっと前回の<事情>が出てきました。
「抽象」的な事と具体的な<事情>の間には優劣はありません。
若いときは「抽象」の方がエライと思ってしまうんですよね。
わたしなんか真にそうでした。
恥ずかしい話です。
芸術はやはり「抽象」です。
個々の<事情>より「人間とは何か?、世界とは何だろうか?」にいきますから。
では、具体的な<事情>は?
これは芸能じゃないでしょうか。
これを支えているのはロウアー=下層階級。
芸能界はワケアリの人が多いのは御存知ですよね。
ところで、わたしは在日韓国人です。
(今は帰化して戸籍上は日本人になってますので、自分でも実は何人かよく分りません。)
紅白歌合戦を在日だけでやっても紅白歌合戦が成立する、という<事情>があります。
芸能とはそういうものです。
こっちもアウトサイダーが主流です。
もし日本の芸能界がつまらなくなっているとしたら、層としての下層階級が薄くなっているからだと思います。
あとは新興宗教が<事情>を扱ってますね。
「抽象」、これもポイントです。
気楽に始めた<難解>の研究ですが、これは長くなりそうです。
しかもかなり荒っぽい展開になってます。
しかし、これでいいのです。
細かく書く知識も無いし、細かく書いたら果てしなく長くなりそうですから。
でも、大まかなところは間違ってないと思ってます。
異論、訂正したい方は遠慮なくメール下さい。
続きは次回に持ち越します。
(ヘタをすると次々回までもつれ込むかもしれない。)
場合によっては、間に違う研究が入るかもしれません。
カタイ話の連続は、書く方はともかく、読む方が疲れますから。
ではね。<第六回終わり>
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