「真理が善悪の基準となるという思考は、地中海世界に始まりいまだに欧米を支配している、病的な思考である」。
これはわたしの大学時代の先生である、社会学者平野秀秋先生のご指摘です。
この言葉には前段も後段もあって、プラトンから始まる西洋哲学の考察が軸になっています。
不思議な一致というか、地中海世界で始まった思考は、美術では今日でも地中海世界で花を咲かせています。
ヴェネチア・ビエンナーレですね。
これは不思議ではなくて、地中海世界の自負なのでしょう。
(1)でわたしが書いたヴェネチア・ビエンナーレは、お題目(テーマ)ではなくてシステムです。
システムの内実です。
お題目(テーマ)は毎回変わりますが、「真理が善悪の基準」であることは同じです。
(正確にいえば、「真理が善悪の基準」という思考を反対側から補うようなポジションです。)
西洋美術の発展系である現代美術ですから、当然です。
西欧近代を批判した作品を展覧会に含んでいたとしても、その王道にはいささかの変更もありません。
もし変えたなら、そのシステムは崩壊しなければなりません。
ヴェネチア・ビエンナーレがなくなることですから、そんなことは絶対にありません。
批判を内在させながら生き延びる、この柔構造が西欧近代の特徴です。
西欧近代の奇形であり、宗教国家になってしまった北朝鮮と比較すれば良く分ります。
宗教国家は批判を内在させません。
粛正によって国家というシステムを維持します。
崩壊した社会主義国家にも同じことがいえます。
批判を内在させる、つまりは民主主義ですね。
反対者の意見を反映させるシステムです。
このシステムの頂点にあるのが、「真理は善悪の基準」です。
正直にいえば、この西欧哲学の根幹をわたしが批判するのは無理です。
基本的な学問を全然していませんから。
(↑これを開き直りという。)
学生時代の不勉強が今ごろになって身に染みます。
わたしにあるのは心細い勘(感)だけ。
そもそも先生のご指摘が出てきた経緯は、無謀にも「美術を直球で研究している」と話したことからです。
その無謀さに驚かれた先生は、その場でサジェスチョンを与え、重ねてメールにメモを添付してくれました。
そのメモの中の言葉が冒頭の一文です。
先生、ここは勘(感)で押し通しますから、後ほどご教示お願いいたします。
といった内実の話(独り言)は終りにして、続きを始めます。
「真理は善悪の基準」がなぜ病的な思考なのか。
答えは、それが人間の系の中で完結しているからです。
人間と世界という二項を巡って深遠な思考が繰り返されていても、フレームは人間の系です。
そして、真理の基礎にあるのは科学です。
「それでも地球は周っている」、ガリレオですね。
地動説は天動説の反論として出てきました。
天動説は神が宇宙を支配しているという論理です。
具体的いえば、キリスト教です。
ガリレオの天動説は科学の時代の始まりですが、キリスト教から科学への変遷は位相の問題であって、根本的な転換ではありません。
何故ならば、キリスト教も「真理は善悪の基準」なのです。
キリスト教の(科学である)神学の根底にはその思考があると思います。
神という地点から見た、「真理は善悪の基準」なのです。
「真理は善悪の基準」がなぜ病的な思考なのか。
そこには「闇」がないからです。
「光」はあっても、「闇」がないからです。
何のことか分らないと思いますが、それは後ほど。
話を美術に戻します。
美術の原初はどこにあるでしょうか。
美術の教科書の最初のページを思い出して下さい。
洞窟画ですね。
ラスコーとかアルタミラの洞窟画です。
代表的なラスコーの洞窟画は、今から約1万8000年ほど前の旧石器時代に描かれた絵です。
今度は、この洞窟画から美術を考察してみます。
「人はなぜ絵を描くのか」という本があります。
美術評論家である中原佑介さんが洞窟画の謎に挑んだ本です。
タイトルが示しているように、美術の本質を洞窟画に求めた論考です。
わたしは現代美術の関係者ですから、中原さんの名前はもちろん知っています。
美術評論家の先生です。
「偉い」という形容詞がつくほどの美術評論家です。
ところが「人はなぜ絵を描くのか」で中原さんは、美術評論家という立場を捨てています。
一介の悩める美術研究者として、「人はなぜ絵を描くのか」を探索しています。
この本を面白くしているのは、その中原さんの姿勢です。
「あとがき」に中原さんはこう記しています。
前段に絵画の終焉に対するコメントがあって、
しかし、私は絵とはなにかではなく、ヒトはなぜ描くのかというほうに関心をそそられました。
なぜ、描くのか。
この視点は大変重要だと思います。
そこに美術の本質があると、わたしも考えているからです。
本書の構成は各分野の研究者や美術家との対談がメインで、その間に著者の独白がこれも対談形式で載せてあります。
最終章は著者の独白で、本書のまとめになっています。
そこで、まず絵の描かれた場所についての疑問を投げ掛けています。
なぜ絵をわざわざ光のさしこまない闇の空間を選んで描いたのか。
光がさしこむ洞窟ではなくて、なぜ闇の支配する奥まった洞窟に描いたかという疑問です。
疑問が導き出した答えは、
A 要約すれば、絵の始まりはヒト以外のものへのコミュニケーションのためだった、というのですか?
B その絵がヒト同士のコミュニケーションとなり得ることを人間が知るようになったのはずっとあとです。
中原さんAの問いに中原さんBが答えていますが、コミュニケーションという言葉は誤りだと思います。
便宜上の使用と思いますが、ヒト以外のものに対してはコミュニケーションではなくて交流、交換の方が適切だと思います。
ヒト同士はコミュニケーションで間違いありません。
今の美術の役割は専らコミュニケーションですから。
ヒト以外のもの、それは何でしょうか。
超自然的存在を含めた大きな自然のシステム、とりあえずは宇宙とでもよべるシステムのことです。
そういったシステムとの交流、交換は儀式、儀礼とよばれます。
洞窟の闇で絵を描く、それはコミュニケーションではなく、儀式、儀礼といった行為だったようです。
この行為は宗教的な行為です。
原始宗教という宗教の行為(儀式、儀礼)です。
現代で宗教といえば、仏教やキリスト教、イスラム教が挙げられます。
こちらは世界宗教=普遍宗教です。
この二つはまったく違います。
原始宗教は個別な部族、土地と分かちがたく結びついたものですから、普遍になりえません。
世界宗教がなぜ普遍かといえば、「心の問題」を普遍として、信仰のベースにしているからです。
人間の心は普遍である、だから民族を問わず布教される必要がある、という認識です。
これが間違っているかどうかは、ここでは問題にしません。
ただ、原始宗教には布教はありません。
固有の部族、土地に結びついるものは、布教する意味がないからです。
「人はなぜ絵を描くのか」からもう少し引用してみます。
宗教学者の中沢新一さんとの対談から。
シャーマンの登場は、芸術の誕生と同時だと考えることができます。
中沢さんの言葉です。
シャーマンとは、簡単にいえば呪術師のことで、前述したシステムと交流できる人のことです。
宇宙を自在に飛び回り、超自然的存在(精霊)と交信して共同体の守護を司ります。
つまり、洞窟画にシャーマンが描かれているかどうかという以上に、洞窟画はシャーマンと切り離せないということでしょう。
中沢さんとの対談を終えた中原さんの独白です。
「人はなぜ絵を描くのか」を要約すると、
美術は人間を超えたシステムとの交流、交換(儀式、儀礼)の為に生れ、最古の美術家はシャーマンかシャーマンと同等の役割を持った人になります。
社会にとって「分けの分らない人」ではなくて、共同体に「必要欠くべからざる人」です。
この落差は大きいですね。
原始宗教には儀式、儀礼がなぜ必要なのでしょうか。
それは、人間には死があるから必要なのです。
死は個人にとって時間の切断です。
死から先、時間が無くなってしまいます。
原始宗教の考え方では、時間は循環しているもので、共同体にとっても個人にとっても切断はありえません。
今わたし達が普通に考えている時間である、過去とか未来という観念はありません。
死者にも時間があって、生者と共存しています。
説明がちょっと抽象的で分り難いと思いますが、時間は常に過去から未来にリニア(直線的)に流れているのでしょうか。
このことを一度疑って考えてみて下さい、
時計やカレンダーを頭の中から消して、考えてみて下さい。
そうすれば、原始宗教の時間の観念がそれほど突飛なものでないことが分ります。
循環する時間は、人間を超えた大きなシステムの時間です。
そこから人間や共同体が切り離されると、人間や共同体は存続できません。
単純化していえば、ライフライン=水や空気や食物がなくなってしまうからです。
水は川から得ることができますが、川には川の神がいて、人間はその神との交換によって水を得ることができる。
自然の中に人間を組み込んで、自然のサイクルと人間のサイクルをシンクロ(同調)させる。
そういう思考です。
この思考を迷信と切り捨てるのは、非常に浅薄です。
高度に洗練された知恵(哲学)です。
なぜなら、原始宗教を生活の土台とした未開の人々は、何万年も平穏な生活を続けたからです。
(ここ百年で起きた大量殺戮=戦争や事故死、自殺と比較して見て下さい。)
未開の人々は、人間が人間の系の中に閉じこもる危険性を熟知し、人知を超えたシステムとの連鎖、共存に腐心しました。
そうすることが、人間が人間らしい生活を送る方法だと知っていたからです。
これは、文化ですね。
本来の意味での、文化です。
原始宗教については、わたしの未熟な知識よりも「吹矢と精霊」、「悲しき熱帯」をお読みいただきたいと思います。
わたし自身は、いつも示唆をいただいている平野先生のサイトが勉強の場というか、実に刺激的に文化を考えられる場です。
(法政や成蹊の学生向けの講義ノートも面白いです。WWWで公開されているものですから、部外者の閲覧も可能です。)
宮崎駿の「千と千尋の神隠し」もそういう映画です。
わたし達の生きている世界はおおよそ西欧近代を上に成り立っていますが、「千と千尋の神隠し」の世界も残っています。
江戸時代、いや戦前までは民俗信仰などのかたちで色濃く残っていました。
又日本人が無信仰といわれるのは誤りで、普遍宗教からみた無知に他なりません。
その無知が逆輸入されて、わたし達自身も無信仰だと思い込んでいるに過ぎないのです。
ここでまとめてみましょう。
旧石器人(未開の人々)は洞窟に絵を描きました。
今のところ、これが現存する最古の絵で、その絵は闇の場所で描かれました。
絵は宗教的な儀式、儀礼に関係していると想像され、その宗教とは原始宗教とよばれるものです。
原始宗教にとって儀式、儀礼は、超自然的存在を含む大きな自然のシステムとの交換という意味を持ちます。
(生贄も交換の重要な儀式です。)
この交換がないと人も部族も生きていけません。
システムから切断されると人間の系で閉じてしまい、やがては滅びると認識していたからです。
洞窟で絵を描いた人(恐らくは部族の専門家)は必要欠くべからざる人物で、その絵も儀式、儀礼にとって必要欠くべからざるものでした。
今の言葉でいえば、美術も美術家も生活に必須のものだったのです。
「分けの分らないものを描いている、分けの分らない人」とは随分な違いですね。
西欧近代によって格を上げてもらったのか下げてもらったのか、分りませんね。
でも留意して欲しいのは、現代のシステム(例えばヴェネチア・ビエンナーレ)が本来の文化とは縁のないものであっても、美術家はやはり美術家であるということです。
原初の洞窟画を描いた美術家の血が現代の美術家にも流れているのです。
(1)に書いた画廊での作家との対話の集積が、そのことの実感です。
誤解を恐れずいえば「分けの分らないものを描く」のは、それがコミュニケーションではないからです。
作家は必ずしも人に向かって絵を描いているわけではないのです。
洞窟の美術家と同じように、人知を超えたものに向かって交換しているのかもしれません。
しかし、私は絵とはなにかではなく、ヒトはなぜ描くのかというほうに関心をそそられました。
中原さんの問いです。
中原さんは絵とはなにかについて、飽きるほど勉強され評論されてきた方です。
しかし、ヒトはなぜ描くのかが分らなかった。
分らなかったから、ラスコーまで出掛けて洞窟画を見に行きました。
その結論が、ヒト以外のものにコミュニケーションするためだった、です。
恐らく、これが美術の本質です。
洞窟画が描かれているのは光の届かない闇の空間です。
なぜ絵の描きにくい闇を選んだでしょうか。
そこが未開人にとって聖なる場所であったからです。
闇が聖なる場所?
子供の頃、遊園地のお化け屋敷に入ったことがあります。
最初はお岩(四谷怪談)のような幽霊が怖かったのですが、一番怖かったのは自分の手足も定かでない闇でした。
その闇の中で立ちすくんで、一歩も前に進めなかったことを良く憶えています。
人間にとって最大の恐怖は闇です。
闇には何があるか分らないからです。
想像を超えた恐ろしいものがあるかもしれないからです。
人知を超えたシステムとの交換に選んだ闇という場所。
洞窟の壁の向こう側、それは異界だったと思います。
魑魅魍魎や精霊が住んでいる異界です。
現実と異界の境にある壁、そこに描かれた絵はまさに異界との交換(交流)です。
作家がキャンバスに絵を描くとき、キャンバスは壁として存在します。
壁は何かを区切っています。
しかし、作家は壁の向こう側を常に見据えています。
現実には何も見えない、向こう側(異界)です。
作家がキャンバスに投影するのはイメージではなくて、ビジョンです。
映像ではなくて、世界の姿です。
その世界の姿は、壁の向こう側を含んだビジョンです。
つまり、原初の美術家の血がそこに流れているのです。
ヒトはなぜ絵を描くのか。
それは、ヒトがヒトとして生きていくためです。
ヒトがヒトとして生き延びるために、世界と交換し、世界の姿を描こうとするのです。
それを、文化といいいます。
洞窟の闇は異界への入口(聖なる場所)ですが、人間の内側の闇でもあったと思います。
人知の及ばぬものは人間の内側にもあります。
それを解放して大きなシステムに組み入れるのも、未開の人の知恵だったと思います。
これはまったくの私見ですが、美術を考えているとそうなります。
絵を描くとは、人間の闇の解放に他ならないからです。
西欧近代とは、闇を駆逐しようとする意志です。
その意志は、今闇に復讐されているような気がします。
それが、わたし達の不安であり社会の不安です。
バラバラにされた、わたし達のどうしょうもない不安です。
西洋哲学の祖ともいえるプラトンは真理を三つの階層に分けたそうです。
科学者と職人と詩人です。
真理にもっとも近いのは科学者で、最も遠いのは詩人で、詩人は追放されました。
科学者は光を追及し、詩人が体現するのは闇です。
美術家は闇の住人であり、西欧近代で美術家が不遇なのは当り前のことかもしれません。
当り前かもしれませんが、人間が人間性を回復するには闇が必要であり、美術家を必要とするはずです。
ヒトが絵を描くのをやめないかぎりは。
<第六十六回終り>