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iの研究


第四十三回 <世界>の研究(4)


スマッ・ブリとは「森のひと」という意味です。
スマッ・ブリは、森で生活する
採集狩猟民族です。
彼らの財産はわずかな衣類と装身具で、それはトウで編んだ背負い籠に入ってしまいます。
彼らはものの保管場所としての住居を必要とせず、森すべてが住居なのです。

この身軽さが羨ましいですね。
今日本で引っ越しをするとなったら数十万円もかかってしまいます。
どうしてわたし達はそんなにものを持っているのでしょうか。
その多くは、普段はほとんど使用しないものです。
でも、捨てられない。

ものの多くは商品で、その商品によってわたし達は世界と繋がっています。
ものがなくなったら、わたし達は世界と無縁になってしまいます。
それが怖いから、わたし達はもので城壁を築いているのですね。
さて、スマッ・ブリは何によって世界と繋がっているのでしょう。

スマッ・ブリはマレーシアの熱帯雨林に住んでいます。
今回はスマッ・ブリの生活と信仰の記録である「吹矢と精霊」をテキストに考察をすすめます。
著者は口蔵(くちくら)幸雄さん。
大学で生態人類学を研究されている方です。

口蔵さんは1949年生まれですから、わたしと同い年です。
同い年というのは、親近感がわきます。
本書からうかがえる口蔵さんのご本人の像にも親近感を持ちました。
森でのキャンプ生活に出かける前夜、残っていた最後のウイスキーを飲み、明日から酒なしで眠れるだろうかと心配する口蔵さん。
学者然としていないところが良いですね。

この本を知ったのは、前にも書きました平野先生の「ONLINE社会学講義」からです。
そういえば、平野先生も学者然としていません。
(それはもう、この講義を読めばよ〜く分かります。)
先生の講義の中に何回かこの本のことが出てきます。

「吹矢と精霊」は“熱帯雨林の世界”というシリーズの一冊として1996年に刊行されています。
口蔵さんのフィールドワークが実際に行われたのは1978年から1979年にかけてです。

フィールドワークが行われたのはマレー半島の熱帯雨林です。
マレーシアにはオラン・アスリと総称される先住民族がいます。
スマッ・ブリはオラン・アスリの一グループで、元来は採集狩猟民族です。
後から入植、占拠したマレー人との交流でその生活形態に変化がおきました。

農耕民であるマレー人は外国との交易にも熱心でした。
マレー人は交易のために香木、樹脂類、トウなどの森林産物を必要としました。
その結果、交易産物の採集、農作業の手伝いなどの賃労働、野生植物資源の利用を組み合わせた独特な生業様式が生み出されました。

又、マレーシア政府の定住化政策によって、奥地から保留地とよばれる森林の中の村に移住しています。
スマッ・ブリはこの村を基点にして、奥地へ採集狩猟、トウ採集、近隣の農村へは賃労働、町へは買いだしに出かけます。



口蔵さんは村に入った翌日、早速吹矢猟に同行し森に入ります。
熱帯であるマレー半島では、開けた場所より森の方が過しやすいそうです。
直射日光がささないために、日中はそれほど気温が上がらず、夜も冷え込まないそうです。

吹矢、子供のころに遊んだことがあります。
二十センチぐらいの紙製の吹矢で、飛ぶ距離は数メートルでした。

スマッ・ブリの吹矢の筒は二メートルほどの竹製で、樹脂製のマウスピースがついています。
矢はヤシ科植物の幹を削り、先端を尖らせて毒を塗ります。
毒はクワ科の樹木の樹液を何回も塗って乾燥させます。
獲物は主に樹上のサルや大型リス。

樹上ですから、上に向かって吹矢を吹くことになります。
地上で生活する動物は気配に敏感で、当てるのが難しいそうです。
二メートルもある筒を吹くのは大変な肺活量を必要とします。
しかも、矢がある程度獲物に突き刺さらないと仕留められません。
かなりの体力、技量及び経験(獲物を音で察知し、気付かれないように近づく)が必要です。

仕留めたサルは解体し、毛と骨以外は残すことなく食べます。
すべての内蔵、皮、脳はもちろん、骨を割って骨髄もすすります。

※サルを食べる、というところで拒絶反応をおこした方は想像力が不足しているか、文化に対する認識が低い人です。
「吹矢と精霊」をお読み下さい。
貴方の知的水準は確実にツーランクぐらいアップしますよ。

狩猟以外に漁労やカメや爬虫類の捕獲も盛んに行われます。
重要な動物性たんぱく質はこれらで補給します。
採集の方は果実やイモ類が主です。
これも、いつ、どこに、何が成育しているかといった知識経験が必要になります。
男は狩猟、女は採集という分業になっています。

森ではキャンプ生活を送ります。
シアという片屋根式の住居は、簡易なものであれば一時間、通常でも二時間で作ってしまいます。
森の樹木や葉を利用して作られた、実にシンプルなシアには平均二日しか滞在しません。
つまり頻繁に移動していることになります。
スマッ・ブリは世界でもっとも頻繁な移動を行う採集狩猟民族だそうです。

彼らは山刀一つあれば森で生活できます。
それで生活物資を集め、食料も調達します。
この身軽さを口蔵さんは羨ましがっていますが、ホント同感です。
森全体が住居であるのも、スゴイことです。

スマッ・ブリの基本単位は核家族です。
各家族は平等な関係にあります。
伝統的には首長やリーダーといった地位はありません。
(現在は政府によって村長的な地位が年長者に与えられています。)

森での生活は快適ではありますが、厳しいものでもあります。
それ相応の経験を積まなければ生きていけません。
ですから、小さいうちからその訓練を積みます。
といっても、厳しく躾けるのではなくて、いつの間にか身に付いているというユルさがあります。
スマッ・ブリの生活は全体にユルい感じです。
説教、体罰などとは無縁の世界です。

もちろんスマッ・ブリの社会にも不和はあります。
その時は、当事者の一時的、あるいは長期の離脱です。
冷却期間をおくということです。
リーダーや調停の制度のない世界での解決方法です。

これは収集狩猟民族一般にいえることのようですが、徹底した平等主義が根底にあるようです。
猟で獲物を仕留めた者が特に称賛されることもありません。
又、分配にも関わりません。
権力の発生を阻止する方策が自然とでき上がっています。

獲物は各家庭に平等に分配されます。
又、食物を食べている人を見た人には、その食物を必ず与えなければいけないという信仰もあります。
これは平野先生も講義で書かれていたと記憶していますが、優れた知恵です。
分配をめぐる争いを未然に防ぐ優れた知恵です。
ここには、富と貧の差が生じないシステムがキッチリと作られています。



結婚も離婚も簡単におこなわれます。
同じシアに寝泊まりすれば、それで結婚と認定されます。
結婚の規制はありますが、きわめて少ない方です。
これも、ユルい制度です。

ユルいけど合理的なのは、離婚しても、子供は自分の子供であることです。
何回も結婚するのが普通におこなわれますから、その都度子供が増えます。
逆にいえば、一人の子供に親が大勢できることになります。
平均寿命の短い収集狩猟社会では、扶養者を多くして子供の生存率を高めるシステムになっています。

死は、淡々と受けいられるようです。
これは意外でした。
葬式や喪もないそうです。
多分これは後述する信仰となんらかの関係がありそうです。

現在のスマッ・ブリの生計はトウ採集に強く依存しています。
トウを現金、生活物資と交換して生活を補っています。
しかしトウ採集の旅行は、保留地から離れて森の生活を楽しむことにもなっています。
猟や食用植物の採集をしながら、トウの採集をしているからです。
採集旅行は任意の数家族で出かけることが多いようです。

スマッ・ブリの生き方は対立を好みません。
自分の要求を相手に突きつけようとは絶対にしないし、相手の要求に従いたくないときには姿を消すだけです。
ある意味で徹底した受身の思想を持っています。
攻撃の思想である裁判制度の反対になりますね。

考えてみれば、わたし(達)は自分の主張は正々堂々と相手に述べよ、という教育を受けてきました。
日本人は意見をハッキリといわない、と欧米から批判されてきました。
しかしこの本を読んでいると、それらが一つの方法でしかないことに気がつきます。
制度の中の一つの方法でしか過ぎず、最良、最善ではないことに気がつきます。


ここまでは、「吹矢と精霊」の前半を要約しながらスマッ・ブリの生活を描写してみました。
ここからは、後半のスマッ・ブリの信仰について書いてみます。


「スマッ・ブリは、彼らをはじめ現世の人間が暮らしている“大地(アテ)”は、海に浮かぶ比較的薄い土の円盤であり、この世を浮かべた海はおわんのような容器にはいっていると考えている。アテは海の上に漂っているのではなくて、ナガとよばれる巨大なヘビの背に固定されている。そして、空の上と大地を浮かべている海の下には、それぞれ七つの層をなす世界があり、そこには死者やさまざまな超自然的存在が住んでいる。」

見事に非科学的で迷信に満ちた世界観ですね。
しかも、この宇宙の基本的な構造はスマッ・ブリの生活の細部まで影響を及ぼしています。
そして、彼らが不幸かといえば、そうでもありません。
活き活きと生活しています。
わたしの眼から見れば、生活を楽しんでいるとしか思えません。


「吹矢と精霊」の後半はスマッ・ブリの宇宙観及び創世期、シャーマン、タブー、病気と治療について精細に記されています。
神話の世界と現実が分かちがたく結びつき、その相互作用が生活の多くの場面に影響を及ぼしている様が見てとれます。
簡単に紹介しながら彼らの世界観の一端に触れてみたいと思います。

ブルトゥアとよばれる超自然的存在がこの世界の全てに関わっています。
ブルトゥアのひとりであるトハンが、いわゆる神にあたる存在です。
トハンが人間をつくります。
そして、人間から動植物の大部分がつくられます。

しかし、この世界観の中ではブルトゥアとトハン(神)に序列はありません。
トハンは一神教の神とは全然異質の存在です。
重要なのはブルトゥアという超自然的存在です。
スマッ・ブリの信仰を理解するということは、このブルトゥアがキーポイントになります。

「ブルトゥアは、人間とその住む場所をつくり、行きかた(文化)を教えただけではなく、現在の人間(少なくともスマッ・ブリ)の生死をつかさどり、禁じられた行為を行わないかどうかを監視し、安全や健康をみまもり、さまざまな援助の手をさしのべる。すなわち、ブルトゥアなしでは人間は存在し得なかったし、現在の生活もなりたたないのである。」



ブルトゥアは超自然的存在であり、人間が直接触れることの出来ない存在です。
彼らにコンタクトできるのはシャーマンだけです。
平等主義が貫かれているスマッ・ブリですが、シャーマンだけは特別です。
といっても、シャーマンが特に優遇されているわけではありません。
シャーマンも普通のスマッ・ブリと同じ生活をしていますし、専業というわけではありません。
スマッ・ブリが生きていくうえで絶対に必要という意味です。

シャーマンだけがコンタクトをとれるブルトゥアは、日本における八百万(やおよろず)の神の信仰に似ています。
つまりスマッ・ブリの信仰は、原始宗教、土着信仰といえます。

スマッ・ブリの信仰で最も興味深いのはニャワとバハンという概念です。
ニャワは精神みたいなものですが、生命そのものでもあります。
バハンはそれを包むもの。
身体は仮のものであって、バハンとは違います。
この関係が面白い。

精神と身体という西欧概念と似ているようで、全く異なります。
これはスマッ・ブリの信仰のキモです。
生と死は、ニャワとバハンの重層的な構造で説明されます。
この辺りは妙に説得力があって、フロイトの精神分析より数段面白い世界です。

前回の森万里子の宗教的世界と近似するのは、このニャワとバハンの概念です。
これは理解するには、「吹矢と精霊」を読んでいただくしかありません。
残念ながらこのページで要約できる範囲を超えていますし、わたしの力量では無理です。

人間の生活には、生と死、生産、分配、食事、病気がついてまわります。
スマッ・ブリの信仰はそれらを有機的に結びつけ、シャーマンを介して生活しています。
その多くは迷信です。
科学的根拠のないものです。

しかしながら、科学がいまだになしえていない世界との繋がりを確実に保有しています。
世界と繋がるということは、生活に実感を持つということです。
科学を根拠にした生活に実感を持てなくて日常生活に支障を来し、このような信仰に親近感を覚える人が増えているのは実に皮肉なことです。
何故なら迷信とは、「
科学的根拠がなく、社会的生活に支障を来すことの多いとされる信仰」のことですから。

今の世界は生産と分配の偏りに悩まされいます。
戦争の因(もと)は、多かれ少なかれ生産と分配をめぐるものです。
一見宗教戦争を装っていても、実は生産と分配の問題なのです。
この問題を、スマッ・ブリは信仰によって巧みに解決しています。
生産に権力を発生させず、分配は徹底した平等主義です。

「吹矢と精霊」を読むと、食に関する記述が多いことに気付かされます。
食材の組み合せや調理の段取りが細く信仰によって取り決められています。
食を得る(収集狩猟)と同じくらいに重要視されています。
恐らくそこには、食が文化であるという認識があるからです。
(今一般に言われている、食の文化とは次元の違うところで。)

文化とは何かという疑問に対して、本書の中でスマッ・ブリは「生きることが文化である」と答えている気がします。
生きることすべてが文化である、と。
だから、生きること全般は有機的に連動しており、食は生きることの源(みなもと)の文化であると。
文化を芸術一般としかとらえられない現代は、残念ながら、貧しい時代としかいえないようです。

「スマッ・ブリでは、人間と自然環境、人間と人間、および人間と超自然的存在のあいだの秩序をまもるために、さまざまな行為が規制された。しかし、スマッ・ブリもほかのどのオラン・アスリも、この規制をまもらせるために、政治的あるいは法的システムではなく、超自然的存在による処罰・制裁という概念を発達させた。すなわち人を裁くのは人ではなく、ブルトゥアである。この根拠はブルトゥアが世界の秩序、人間の存在や生活のありかたをつくりあげ、そしてそれらを人間に教えたことにある。ブルトゥアがつくりあげた秩序をまもらせるために、それに逆らうとみなされる行為を行った人間をブルトゥアが処罰するわけである。処罰、制裁は自然的災害、けが、病気、動物による攻撃などのさまざまな形をとる。」

長い引用になりましたが、この迷信は秀でた文化としか言い様がありません。
わたしには、そう思えます。
原始宗教の細部の矛盾や整合性のなさは、末梢なことなのです。
全体(システム)を覆う文化の美しさ、合理性に、それを実現するために
ブルトゥアという存在を生み出した知恵に素直に驚きました。

科学が駆逐した「物語」は、真に文化的でファンタジックな世界だったのでした。

<第四十三回終わり>

(「吹矢と精霊」を読みたい方は、オンラインのアマゾンあたりが入手しやすいと思います。わたしもアマゾンで購入しました。熱帯雨林だからアマゾン、というシャレではないですよ。他のオンライン書店でも大丈夫だと思います。)




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