世界は人間なしに始まったし、人間なしに終るだろう。
レヴィ=ストロース「悲しき熱帯」の最終章に出てくる有名な言葉です。
わたしがこの本を購入したのは今年(2002年)の一月早々。
今メールを調べてみたら、一月三日にオンラインのアマゾン書店から注文内容の確認が来ています。
(「悲しき熱帯」の舞台はアマゾン周辺ですが、これは偶然。シャレではありません。)
同時に他の本も三冊注文しています。
「今年は勉強するぞ〜!」、という決意があったような気がします。
暮れから正月にかけて趣味の物品の買物に行けなくて、ヤケクソで注文したような気もします。
決意は決意で尊いのですが、続かないのがわたしの取り柄、じゃなくて性(さが)でした。
結局、「悲しき熱帯」は一年がかりの読書になってしまいました。
考えてみれば、わたしがとりあえず続けているのは結婚生活だけです。
これは決意したわけではなくて、ダラダラと続いているだけです。
もうこれはノロケとか自慢とかではなくて、決意しなかった結果だけかもしれません。
だって、これは決意したってしょうがないことですから。
とにかく続いている、という結果でしかないのがわたしの結婚生活と人生。
(そうか、生れた時も決意しなかったな〜。)
そういう人間なんですねぇ、わたしは。
とまぁ、つくづく愛想が尽きてる自分自身ですが、「悲しき熱帯」では粘りました。
前半は読書と読書中断の繰り返しでしたから。
(集中力が落ちている、という個人的な問題もありましたが。)
とにかく読み難い。
センテンスが長く、難解ではないがレトリックと暗喩に充ち満ちた文章。
何よりも、文章が屈折しています。
この本はブラジルの先住民族のフィールドノートなんですが、肝心の先住民族がなかなか出てこない。
出てこないけど、粘った。
これはもう、わたしの勘(感)です。
「この本は面白い筈だ!」、というわたしの頼りない勘です。
結果、面白かった。
たまには、自分を信じてみるものですね。
というわけで、何が面白かったかをこれから書くわけですが、その前に一言。
「悲しき熱帯」は学術書です。
レヴィ=ストロースというユダヤ系フランス人の書いた文化人類学の本です。
でも、これは違う。
この本は、一人の人間の告白です。
レヴィ=ストロースという一人の人間の告白です。
だから、これは文学なのです。
学術書の範疇を超えて、わたしの心に響いてきたのです。
思ってもみなかった読後感にわたしが驚いたのは、そのことです。
この本には人間への絶望と愛があります。
ペシミストの物言いの中に深い愛が表現されています。
人間への愛が。
この本をアマゾンに注文したきっかけは、大学の恩師である平野秀秋先生の学内サイトで推薦(必読図書)されていたからです。
以前取り上げたガンジー「真の独立の道」、口蔵幸雄「吹矢と精霊」も先生のサイトで知りました。
しかし「悲しき熱帯」は前二著とは趣がまったく違います。
先住民研究の先駆的学術でありながら、著者の優れた魂の記録にもなっています。
「悲しき熱帯」の「悲しき」は、センチメンタルでロマンティックな響きのある形容詞です。
一昔前の歌や映画の題名に多用されましたね。
これは意訳で、直訳すると「憂うつな、暗い、うんざりする」になります。
内容からすると直訳の方が合っていますが、翻訳者苦心の訳である「悲しき」もわたしは好きです。
どこか日本人の心情に訴える「悲しき」という幾分軽い語感が、この重すぎる本を救っているような気がするからです。
本書が執筆されたのは1954年から1955年にかけての半年弱です。
実際にブラジルで先住民調査が行われたのはその15年前。
わたしが購入した「悲しき熱帯」は中公クラシック版(新書サイズ)で、(1)と(2)に分冊され合計約800ページです。
調査から執筆までの15年という長さ、分量からすれば異様に短い執筆期間。
これは何を意味するのでしょうか。
恐らく、著者は調査記録が自身の内面で発酵するのをじっと待っていたからでしょう。
時の到来ともに一気に書かれた思われる「悲しき熱帯」。
そこには「熱」があり、それが学術書の範疇を逸脱させています。
その「熱」の正体は、恐らくレヴィ=ストロース自身の人間としての過剰さです。
わたしが読書に悪戦苦闘したのは分冊の(1)で、二ヶ月近くかかりました。
(1)の終わり頃にやっと先住民が登場します。
この辺りから俄然面白くなって、(2)は数日で読み終えました。
(1)の大半を占めているのは、著者の回想、自己洞察や調査の前置き、背景です。
しかも時間と空間が順序だっていません。
読者には書かれている内容の脈略がなかなか掴めません。
全体を読み終ると、その意味が徐々に姿を現す仕掛けになっています。
この手法は、構造主義の手法といわれています。
レヴィ=ストロースは構造主義の祖で、「悲しき熱帯」も構造主義の傑作ともいわれています。
構造主義は哲学、思想の分野に属する事柄ですから、わたしの苦手とするところです。
難しすぎてよく解りませんが、そのことは本書を読む上では殆ど障害にはなりません。
時空の秩序が通常と違うだけで、特に難解というわけではないからです。
(しかし、粘りは必要ですよ。粘りは。)
調査記録という面で見れば、(1)の大半と(2)の終わりの方は無駄といえば無駄です。
でも無駄どころか、レヴィ=ストロースの「熱」はここにあって、深遠な先住民の文化と呼応する関係になっています。
そういった本書の構造自体が構造主義的手法であることは、わたしにも分かります。
この方法論に辿り着くまでの期間が15年であり、そのヒントは他ならぬ先住民の神話体系にあったのではないかと、わたしは想像します。
「悲しき熱帯」が憂うつで、暗く、うんざりするのは、著者の置かれた立場の問題です。
熱帯(ブラジル奥地)自体は唯そこに存在しているだけです。
著者はユダヤ人という被差別民族であり、同時に西欧人という(熱帯にとっては)侵略者です。
(調査から執筆までの15年の間に、ナチの迫害でアメリカに逃れていた時期もありました。)
この屈折が本書全体を広く覆って、憂うつで暗くうんざりするものにしています。
人間への愛憎が少なからぬ振幅を伴って全編を貫いています。
アメリカ大陸の先住民は、北米ではインディアン、南米ではインディオと呼ばれています。
「インド人」という意味です。
これはご存知の通り、コロンブスがアメリカをインドと間違えたことに由来します。
まぁ、失礼な命名ですが、(定着しているといえば定着しているので)、使用するかどうかは微妙なところです。
インディアンもインディオもルーツは同じです。
遥か昔にベーリング海峡を渡ったモンゴロイドの子孫です。
南北アメリカの各地に似たような(構造が同じ)神話が残されています。
環太平洋文化ともいわれる先住民の神話体系については、中沢新一「カイエ・ソバージュ/熊から王へ」に詳しく書かれています。
先住民は基本的には部族という単位で、同じ生活を送ってきました。
マヤやインカなどの文明もありましたが、長い歴史の中では例外に属することです。
進歩や発展とは無縁に、同じ生活を送ってきました。
ここは重要です。
同じ生活を送るのには意味があるからです。
ところが、コロンブス以降ヨーロッパからの侵略者、移民でその生活が大きく変わってしまいました。
虐殺と(ヨーロッパから持ち込んだ)疫病で先住民の数は激減しました。
わたしが不思議に思うのは、ヨーロッパ人がナチのホロコーストに罪の意識を持っていても、北南米の先住民への侵略にはさほど意識がないことです。
あの広大な面積にどれくらいの先住民が生活していたのか分かりませんが、虐殺と侵略に伴う死は膨大な数に上ると思います。
わたしが小さい頃、洋画といえば西部劇が全盛でした。
そこで出てくるインディアンは野蛮で未開で、罪もない白人を襲うのが主な役回りでした。
上半身は裸、鳥の羽根の被り物と異様なフェイスペインティング。
雄叫びとともに斧を振り下ろす。
主人公の白人がふと気がつくと、丘の周りは馬に乗ったインディアンに包囲されている。
悪夢のような場面、ですね。
今考えてみれば、悪質なプロパガンダとしかいいようのない扱いです。
アフリカは暗黒大陸で人食い人種が跋扈している、これも悪質さでは引けを取りません。
そのインディアンや土人が信仰しているのが原始宗教です。
映画では太鼓の音や踊りでそれらしく描かれ、迷信から抜け出せない不幸な人々、といった図でした。
レヴィ=ストロースが「悲しき熱帯」を執筆していた1930年代は、そういったプロパガンダが何の批判もなしに受入れられた時代です。
「悲しき熱帯」で先住民に対して野蛮人、未開人という言葉を普通に使っているのは、やはり時代の所為です。
レヴィ=ストロースが調査に出掛けたのはブラジル奥地で、ボリビアやパラグアイと国境を接する内陸部です。
ヨーロッパ文明の侵略から逃れた数少ない先住民の部族が生活している地域です。
そこまでの調査行は冒険譚として面白い読み物になっています。
(ところが、本書の冒頭でレヴィ=ストロースは「わたしは旅や探検家が嫌いだ。」といきなり宣言しています。艱難辛苦の旅の連続ですから理解できますが、やはりどこか屈折してますね。)
調査対象になった部族は、カデュヴェオ族、ボロロ族、ナンビクワラ族、トゥピ=カワイブ族です。
それぞれの部族の日常生活(衣食住)、社会構成、家族構成、信仰、祭祀などが記されています。
上記先住民族は狩猟、採集が生活の基ですが、部族によっては簡単な農耕にも関わっています。
部族の構成人員は侵略と疫病の為に大幅に少なくなり、彼らの日常にも変化が見られますが、生活の基本は変わっていません。
先住民の生活全般をここで要約するのはわたしの手に余りますので、その詳細については「悲しき熱帯」をお読みいただきたく思います。
老婆心でいえば、口蔵幸雄「吹矢と精霊」を併読されることをお薦めします。
(マレーシアの熱帯雨林の先住民族スマッ・ブリの生き生きとした生活が、貴方に元気を授けてくれるかもしれませんよ。)
さて、「悲しき熱帯」を読んでわたしが感じたことを中心に話を進めたいと思います。
人類の歴史はどのくらいあるのでしょうか。
今の人間に近い人類から遡ってみても数万年の歴史がありそうです。
わたしたちが人類の歴史を考える場合、西暦の紀元前と紀元後を無意識に基準にします。
西暦は単にキリストの生誕を紀元としているだけなのですが、人間の歴史を紀元後にウェイトを置いて考えがちです。
紀元前というのは、何か漠然と未開であったり、野蛮であったりしているような気がしてしまいます。
アフリカを暗黒大陸だと思ってしまったのと同じようにです。
でも考えてみると、数万年のうちの2000年はそれほど長い期間ではないことが分かります。
西暦というスケールを外して人間の歴史を考えてみると、視座が違ってきます。
この2000年の中に、とりわけ西欧文明に人類の進歩、発展を見れば、人間の生活は急激に向上したということになります。
ここ数百年で人間は未曾有の生活を手に入れたといえます。
快適な、今の生活です。
しかし見方を変えてみると、数万年無事で過ごしてきた人間の生活が、ここにきて立ち行かなくなってきたのも事実です。
資源や環境問題、核戦争の脅威、そしてあのテロに代表される見えない不安です。
富の極端な偏在もありますね。
人間の生存のベースになる食生活も不安だらけで、想像するのも怖いほどです。
これらのことはここで書くまでもなく、既成の事実です。
わたしが一番気になるのは、人間の精神(内面)がこのままでは持たないという危機感です。
内側の荒廃は目に見えないだけに、予期しない事態を生む危険があります。
それらが、数万年の歴史でここ数百年におこった変化の結果です。
人間の歴史を一年に縮小すれば、たった数日でこうなってしまったのです。
今は景気が悪いから暗い考えしか浮かばないのだ、という意見もありますが、果たしてそうでしょうか。
わたしにはそうは思えない。
小手先ではなく、何か根本的なところで変革がないと人間には未来がないような気がします。
レヴィ=ストロースが何故「悲しき熱帯」の執筆を15年も遅らせたか。
わたしの想像では、ブラジルの先住民に衝撃を受けたからです。
太古と変わるぬ生活を送る、全裸の先住民の生き方にショックを受けたのです。
そこに深遠で思慮深い人間の知恵を見たからです。
そして、人間がいつの間にかパンドラの箱を開けてしまったことに、レヴィ=ストロースは気がついたのではないでしょうか。
それを一気に加速させたのが、自分の属する西欧近代であったことに。
ブラジル奥地の先住民族の知恵は生活全般に見られます。
権力、経済、性などの人間につきまとう諸問題を巧妙に回避、解決しています。
もちろん、争いや人間関係のこじれは彼らの生活にもついて回りますし、万事が上手くいっているわけではありません。
部族間の争いで殺人もあれば略奪もあります。
しかしながら、決定的な違いがそこにはあります。
人間が何であるかを良く知っているのです。
人間は人間でしかない、ということを知っているのです。
それをガンジーの言葉でいえば、「人間は自分の手足で出来る範囲内だけ、行き来しなければならないように生みだされているのです。人間の限界を、神は身体を造って設けたのでした。」、になります。
だから、人間は数万年も生き長らえたのです。
ブラジル奥地の先住民の生活を支配しているのは宗教です。
太古から続いている宗教、つまり原始宗教です。
現代人から見れば、神話の体系です。
中沢新一は前述の「カイエ・ソバージュ/熊から王へ」で、神話を哲学として考察しています。
優れた宇宙観、世界観として捉えているわけです。
今でいう宗教、キリスト教、イスラム教、仏教などの世界宗教と原始宗教は根本で異っています。
自然、外界と人間の関係が連鎖、循環していて、生と死が同一空間に同居しているのが原始宗教。
又、具体的で生活の隅々までその影響があるのが原始宗教です。
ですから、ある意味で普遍になりえない。
角のコンビニの駐車場にある石に精霊が宿っている、と考えるのが原始宗教です。
固有の土地、場所を原始宗教は必要とするからです。
世界宗教は専ら人間の魂を問題にしています。
もともとがそうであったかどうかはわたしには分かりませんが、ある時期からそうなったことは間違いありません。
こちらは普遍であり、抽象です。
普遍だから、権力に利用されて統治の道具にもなってしまいます。
(南米侵略の先兵がキリスト教であったことは周知の事実です。)
統治される側の生活慣習が同じになれば、支配が楽になるからです。
改宗が強制されるのはその為です。
もっと大きな違いは、自然や外界との関係です。
人間は自然の一部であり、自然との交換(コミュニケーション)を常に必要としたのが原始宗教。
ここでの自然は、西欧近代が観察する自然とは別物で、宇宙でもあり具体でもある自然です。
自然を大切にしようとか、地球に優しいとかとは、まったく次元の違う自然です。
自然との交換(コミュニケーション)は、具体的には生贄の儀式といった形で表れます。
人間が動物を食することに対する負債をそこで精算します。
自然との貸借対照表を常にイコールにしておかないと連鎖、循環が途絶える、と考えているからです。
交換(コミュニケーション)を怠ることが、人間にとっては最も恐ろしいことです。
何故なら、自然から見放された人間には生きる場所がないからです。
宗教は、突き詰めれば死の領域をどうするかという問題です。
人間が生きていく以上避けられない事柄です。
原始宗教は、死を一つの過程、といった意味合いで把握しています。
生も一つの過程なら、死も一つの過程。
上手く説明できないのですが、輪廻とも違う感じです。
人間を個体であると同時に類、種として見ている、そんな感じです。
個体の死は時間の終わりを意味しますが、類、種と見れば時間は続いている。
時間という観念は、そこでは意味を持ちません。
すべては繋がり、一つの壮大なサイクルの中に人間が存在している。
今わたし達が実感している時間や空間をリセットして考えないと、この意味は分からないかもしれません。
西欧文明、近代が原始宗教と対立するのは、「繋がる」という考え方の違いです。
西欧文明、近代は「繋がる」を人間の中だけで完結しようとしました。
人間の強い意志かもしれませんが、人間の傲慢さかもしれません。
人間の生存には「繋がる」ことが必要です。
この基盤の置き場所、枠組みをもう一度考えてみないと、わたし達の抱えた問題は永遠に問題で終りそうです。
レヴィ=ストロースのペシミックな冒頭の言葉は、人間の尊大さに対する戒めですが、「繋がる」ことを喪失した人間への悲哀です。
知恵を失いつつある人間への警告です。
原始宗教について、わたしは数冊の本を読んだだけです。
自分でももどかしさがあります。
生硬でこなれていない文章、という反省もあります。
角度を変えて、この続きを書きたいと思っています。
(今年ビデオで観たアニメ映画、「千と千尋の神隠し」を次回は題材にする予定です。)
最後に、「悲しき熱帯」でわたしが一番好きな描写を紹介します。
物質的には極貧といえるナンビクワラ族。
全裸で暮らす彼らの所持品は背負い籠のわずかな物品のみです。
乾季には荒野で狩猟と採集で暮らし、その食事も又貧しい。
しかし彼らには生きる為の叡知があり、あえてその生活を選んでいます。
地面に直に寝るナンビクワラ族は、寒さ除けに焚火を燃やす。
夜、レヴィ=ストロースは火の微かな明かりに映し出される人間を描写しています。
「夫婦は、過ぎて行った結合の思い出に浸るかのように、抱き締め合う。愛情は、外来者が通りかかっても中断はされない。彼らはみんなのうちに、限りない優しさ、深い無頓着、素朴で愛らしい、満たされた生き物の心があるのを、人は感じ取る。そして、これらの様々な感情を合わせてみる時、人間の優しさ、最も感動的で最も真実な表現である何かを、人はそこに感じるのである。」
<第五十五回終わり>
※今回の研究は平野秀秋先生の学内サイト「比較文化論・講義ノート」から多大な示唆をいただきました。
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