藍 画 廊



吉田哲也展
YOSHIDA Tetsuya



吉田哲也展の展示風景です。
本展覧会は、2005年に亡くなった吉田哲也さんの作品展です。
本展は、1999年に東京都現代美術館で開催された『MOT アニュアル 1999ーひそやかなラディカリズム』展の出品作品を中心に展示しています。



画廊入口から見た展示で、台座の上に6点の彫刻作品が置かれています。
右側の壁には10点の小さな彫刻作品が設置されています。
(上の画像では、壁に等間隔で小さな黒い点として写っているのが作品です。)



今度は反対側(正面壁面側)から見た展示です。

以上の16点が展示室の展示で、『MOT アニュアル 1999ーひそやかなラディカリズム』展の出品作品です。
その他小展示室に5点、事務室壁面に4点の展示があります。



台座の上の作品です。
画廊入口から見て、手前から順に二点づつご覧下さい。
左は作品サイズ0.4(H)×18.5(W)×1.5(D)cm(トタンとハンダ)、右は0.6×21.0×0.6(トタンとハンダ)です。



左は2.0×23.5×0.3(針金)、右は0.8×21.0×3.7(トタンとハンダ)です。



左は22.6×85.0×0.6(トタンとハンダ)、右は0.6×21.6×4.3(トタンとハンダ)です。



右壁面に展示された10点の作品のうち、任意に選んだ4点です。
作品サイズは各1.7×0.4×0.3cmで、針金を使用しています。
一見同じような形に見えますが、微妙に表情が異なります。



小展示室の展示です。
左から作品サイズ28.2×7.8×36.1cm(針金とハンダ)、32.0×8.5×44.0(針金とハンダ)、18.6×1.1×33.5(トタンとハンダ)、0.5×21.0×10.0(トタンとハンダ)、17.7×8.9×28.9(トタンとハンダ)です。



小展示室の針金とハンダの作品です。
針金の伸びやかなフォルムと、出発点と到着点のようなハンダの小さな塊。
シンプルで無駄のない作品ですが、内容の豊かさと空間の質に圧倒されます。



事務室壁面に展示された4点のうちの1点です。
作品サイズ3.3×9.0×0.2cmで、針金を使用しています。

本展は前述したように、1999年に東京都現代美術館で開催された『MOT アニュアル 1999ーひそやかなラディカリズム』展の出品作品を中心に展示しています。
この展覧会を企画されたのは南雄介さん(現国立新美術館)で、カタログには南さんが執筆された展覧会論文が掲載されています。
その中の吉田哲也さんの作品に対する論評を、南さんのご好意でここに転載させていただきます。

-ひそやかなラディカリズム- 南雄介

今回出品した9人の作家のなかで、吉田哲也の作品はもっとも彫刻的なものである。
吉田は、かつては接合したトタン板が重力で自然なたわみを見せる大きな彫刻を作っていたが、1993年頃よりやはりトタンや針金を用いた小さな彫刻を制作発表するようになった。
それらは、いくら小さなものであろうと、展示台の上や壁面に置かれるとき、彫刻特有の空間性、彫刻特有の場を作りだす。
それは、主として視覚性や手に取られるといった感覚に依拠するオブジェとは異なり、重力との拮抗関係を持って立ち上がり、空間を生起させる。
その意味で吉田の彫刻は、きわめてフォーマリスティックな性格を持っていると言ってもよいだろう。
かつて吉田は、自らの求める彫刻の定義を言葉にしたことがある。
それは「高さを持って立ち上がるもの(そして、それを見上げる)」、「深さ(密度)のある表面」、「中間的なもの(大きくも小さくもない/強くも弱くもない)」、「ズサンなもの、あるいはズサンを残したもの」という4つであった。
この4項は、まさに吉田の彫刻を過不足なく言い当てているように思われるが、特にここで「中間的なもの」とか「ズサンなもの」と呼ばれている感覚は、われわれがmodestyの名を与えようとした特性に近似している。
具体的には、トタン板や針金のニュートラルで日常的な存在感や、開放的で偶然性を宿した作品構造が、これにあたるだろう。
しかしそれは、形式的なものというよりは、作品との心理的な距離の問題であるように思われる。
かつて吉田が、個展の度に発表していた短いテキストは、「常温」とか「平信」などと題されているが、そこからも、つとめて何気ないものを求めようとする作家の心的な態度が伝わってくる。
しかしながら、この「何気なさ」の追求とは、かのマルセル・デュシャンのレディメイドにも通底するものであり、すぐれて逆説的なものとも言えるだろう。
吉田の彫刻の展開は、「何気なさ」を強めていくという、概念的に考えればきわめて困難な道筋をたどってきた。
しかもそれが、まさに「何気なく」自然にやりおおせられてきたように見えるのは、ある意味では驚くべきことなのかもしれない。
そこにわれわれは、彼の際立った芸術的な個性を見るべきであろう。



南さんのご指摘された「何気なさ」は、吉田作品の核心と思います。
吉田哲也さんの「際立った芸術的な個性」をご高覧いただければ幸いです。
又、『MOT アニュアル 1999ーひそやかなラディカリズム』展のカタログには出品作家の小文も収録されています。

-吉田哲也-

朝起きて何もやる気がおこらず、とりあえずつけたテレビを、結局、深夜の放送終了まで見続けてしまった無気力な一日。
すぐ済むと思って始めた雑用が思いがけず長引いて、それだけで疲れてしまい、やらなければならなかった肝心なことは明日にまわしてしまった意志薄弱な一日。
そういう日々に対して、良いとか悪いとかの判断を下さず、反省もせず、ただそのままを自分の中に丸ごと受け入れるという作業をきちんとしていきたいと思います。
そうすれば、そういう日々の中にある美しいものを見つけることができるような気がします。
本当に美しいものは、そういう所にあるような気がして仕様がありません。


吉田哲也さんは、日常を大切にした作家でした。
繰り返される日々の中に、美しいものを見出した作家でした。
特別なものではなく、ありふれた日常と空間。
そこで生起する出来事を観察して、作品としました。
当たり前のような生活に含まれている、本当に美しいもの。
今画廊で眼の前にあるのは、そのような、得難い美しさを表した作品です。


2001年藍画廊個展

「世界」2005 吉田哲也追悼展
「世界」2005 吉田哲也追悼展/テキスト
iPhoto「遺品」



会期

2009年4月27日(月)-5月9日(土)

日曜・祝日休廊

11:30am-7:00pm(最終日6:00pm)


会場案内