藍 画 廊



川田夏子展
KAWADA Natsuko


川田夏子展の展示風景です。



各壁面の展示をご覧下さい。



画廊入口から見て、左側の壁面です。
左から、タイトル「空空 07」で、サイズ27.3(H)×22.0(W) (F3)、「空空 03」で27.3×22.0 (F3)、「水は茫茫 花は紅 04」で72.7×60.6 (F20)です。



正面の壁面です。
「水は茫茫 花は紅 05」で130.3×97.0 (F60)です。



右側の壁面です。
左から「空空 06」で45.5×38.0 (F8)、「空空 08」で41.0×31.8 (F6)、「空空 02」で33.3×22.0 (P4)、「空空 04」で116.7×91.0 (F50)です。



入口横の壁面です。
左から「空空 05」で27.3×22.0 (F3)、「空空 01」で33.3×24.2 (F4)です。

以上の10点が展示室の展示で、その他小展示室に2点、事務室壁面に1点の展示があります。
作品はすべて雲肌麻紙に岩絵具を使用しています。



左壁面の「空空 07」と「空空 03」です。
入口から入って順に見ていくと、まず眼に入る2点で、この美しい茫茫の様(さま)に魅了させられます。
薄く塗られた色の地と、あるか無きかの図の形が融け合って、絵画の空間が広がっています。
空(くう)とは何もないことですが、それが重なって空空(くうくう)。
その意味については、後ほど考えてみたいと思います。



同じく左壁面の「水は茫茫 花は紅 04」です。
「水は茫茫 花は紅」は前回個展から続くシリーズです。
先ほど茫茫という言葉を使いましたが、その意は、広々としてはるかなるさま、ぼんやりとしてはっきりしない状態です。



正面壁面の「水は茫茫 花は紅 05」です。
紙(雲肌麻紙)の地をそのまま活かして、繭か花びらのように見えるタッチ(筆跡)が散らされた作品。
川田さんの作品には特にモチーフはありませんが、タイトルのように、水と花をそこに見ることは自由です。
この作品は展示位置としても、作品の形態としても、展覧会全体を引き締める役目を果たしています。



右壁面の「空空 06」です。
川田さんの前回個展との大きな違いは、色彩の導入と地と図の融合です。
繭のような形も大幅に減りました。
ミニマルとは違った意味で、最小限の表現ですが、その画面は広く、奥が深い世界を提示しています。



「空空 08」です。
何ともいえない中間色の美しさと、絵画空間の豊かさ。
引き込まれるような色彩と茫茫です。



同じく右壁面の「空空 04」です。
シンプルな作品が多い中、最も手が入った(要素の多い)作品ですが、スタンスは同じです。



入口横壁面の「空空 05」です。
二つの白い筆跡が、画面の在り方を決定しているように見えます。



岩絵具の微かな濃淡で表された地と、在るか無きかの図のかたち。
それが目立つ、今回の川田さんの個展です。
淡い地と図が限りなく融合しつつ、それでも地と図の絵画であり続ける。
その危うさが、逆に魅力的な絵画です。

空空(くうくう)。
シリーズとして付けられたタイトルです。
空(くう)とは、一般的には無、何もないことを指します。
しかし川田さんの作品は、空虚ではなく、充分に満たされています。
反語として使ったのでしょうか。
いやそうではなくて、空であることと満(みつ)であることが、実は同じことであることを示しているように思えます。

川田さんの絵には、水を感じます。
それはタイトルだけではなく、画面から水の気配を感じます。
水には姿がありません。
流れで姿を変え、容器で姿を変えます。
それは、喩えてみれば空(くう)であり、満(みつ)です。

川田さんの絵は、優しい絵です。
わたしが展示を見て、最も感じたことです。
その優しさの正体とは何でしょうか。

その一つには、絵に無理な主張がないことです。
押しつけがましさがないことです。
穏やかに佇みながら、世界を開示しています。
その開示の仕方が、多分に優しいのです。
それは前述の空(くう)に通じるのかもしれません。
己の自我(エゴ)を空にして、他者を受け入れる。
そういった絵の姿勢が、色彩やかたちに表れていて、きっと優しいのです。

ご高覧よろしくお願い致します。



2002年藍画廊個展
2004年藍画廊個展
2008年藍画廊個展


会期

2010年12月13日(月)-12月18日(土)

11:30am-7:00pm(最終日6:00pm)


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