藍 画 廊

神山一美
KAMIYAMA Kazumi


神山一美展の展示風景です。



各壁面の展示をご覧下さい。



画廊入口から見て、左側の壁面です。



正面の壁面です。



右側の壁面です。



入口横の壁面です。

以上の9点が展示室の展示で、その他小展示室に5点、事務室壁面に2点の展示があります。
作品はドローイングが画用紙に水彩、顔彩、色鉛筆、その他はすべて和紙に岩絵具、墨、水性顔料を使用しています。
作品の詳細をご覧下さい。



左壁面、左端のドローイングです。
サイズは約370×280mm(全24枚) です。



任意に選んだドローイング2点です。



左壁面、左から2番目作品です。
タイトル「蒼い花」で910×910mmです。



左壁面、左から3番目、右端の作品です。
左は「leaf」で727×727mm、
右は「soil 」で727×727mmです。



正面壁面の作品です。
「風はふいていなくても」で2273mm×909mm×3枚です。


右壁面、左端、中央の作品です。
左は「春の光と記憶」で1620×1620mm、
右は「巡(めぐる)」で1620×1620mmです。


右壁面、右端、入口横壁面の作品です。
左は「air」で1620×1620mm、
右は「種と土の物語 」で1620×1620mmです。


〈作家コメント〉

足元、地上高さ10cmの世界は、少しかがむだけで、見ることができる。

いま此処に、風がふいていなくても、
わずかな空気のゆらぎで、絶えずかすかにゆれる草花たち。
光があたらない場所でもふりそそぐ場所でも、
春は春のかたちで、秋は秋のかたちで、草花の営みはくりかえし続いていく。
コンクリートの段差にたまったわずかな土からも成長しようとしている草花たち。
簡単に折れてしまう茎や葉をもちながら、しっかりと根をのばし生きる。
来年、同じ場所では、同じ草花には出会えない。それは、儚さではなく、希望のように感じる。また次の季節には、違う場所で。
きっとどこかで根をのばし芽をだし小さな花を咲かせるのだろう。
繰り返しのなかで。
いま、ただ偶然にそこに草花が在るだけ。


神山さんの絵のモチーフになっているのは雑草です。
雑草という言葉が生まれた歴史を想像してみると、人類が農業で土地に定着した以降ではないかと思います。
それ以前の長い長い人類史は移動中心の狩猟採集生活でしたから、雑草という概念は存在しません。
つまり自然への介入をできるだけ避けていたので、「雑」という区分は生まれなかったのです。
それは変化(進化)を恐れた祖先の知恵だったと思います。
人間を自然の一部として、あるがままの自然と暮らしていた人々の英知でした。
それが崩れたのは文明の発生であり、とりわけ西欧近代文明の勃興でした。
そこから雑草は人の敵になったのです。

雑草が嫌われ刈られるのは、それが人のテリトリーを侵すからです。
そのような意味では、雑草は未だに自然そのものと言えるかもしれません。
人の手がかかった人工的な草花ではない、生の自然そのものの存在です。
雑草が力強いたくましさの象徴として使われるのは、自然の生命力を表しているからです。
神山さんの描く雑草の群像(?)も実にたくましい。
画面のいたるところでオーバーオールに描写された草花の有り様。
それは生命の輝きであり、自然のパワフルな息吹です。

そこに生があれば、必ず死があるはずです。
生から死がうまれ、死から生がうまれる命の循環が本来の時の移ろいだからです。
雑草の生える大地の地下には膨大な数の微生物のネットワークがあり、地上には太陽や雨の天候ネットワークがあります。
雑草の世代は昆虫や動物の食生活や移動によって継承され、それらの生死と分かちがたく結びついています。
そのような世界、世界観が神山さんの画面からも窺われます。
カオスでありながら、生命の連鎖が繋がる自然界。
それを見つめる地上高10cmの神山さんの視点が、遺憾無く発揮された雑草の「写生」と思いました。

ご高覧よろしくお願い致します。

プライスリスト

2011年藍画廊個展
2017年藍画廊個展

 

会期

2022年6月20
日(月)ー6月25日(土)
11:30ー19:00(最終日18:00)

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