清岡正彦展
FLOATING DIVE
KIYOOKA Masahiko
清岡正彦展の展示風景です。
画廊入口から展示室に入ると、手前に青い絨毯が敷かれていて、その先は一段上がっています。
上に敷き詰められた(画廊の床タイルと同寸の)黒いタイルは、表面が水で濡れているように見えます。
靴を脱いで絨毯に足を入れ、躊躇しながら一段上に上がります。
(展示内部には自由に入ることが出来ます。)
入口側の壁面には額装された平面作品が並べられていて、気が付くと、どこからか音(音楽)も聴こえてきます。
清岡正彦展 /FLOATING DIVE は、インスタレーション作品「遠くを繋ぐ」一点で構成されています。
使用している素材は、
『前回(2007年)の展示・ガラス・アクリル・特殊樹脂・海岸の漂流物・砂・貝殻・ 石・額縁・オーディオシステム・CD・音・粘土・FRP・ポリエステルパテ・MDF・ 紙・車両用塗料・エポキシ系接着剤・舟の彫刻・ドローイング ( 墨・アクリル絵具 )・テーブル・建材・藍画廊 など繋がり得るものすべて』
になっています。
前回の展示のご案内で、清岡さんのインスタレーションを小さな舟の旅に喩えましたが、今回はその続きです。
やはり小さな舟の旅で、画廊の天井(最上の小さな画像)と作品の内部に、その舟を見ることができます。
旅の行く先は、遙か彼方と日常が繋がり合った、マジカルミステリーワールドです。
インスタレーション「遠くを繋ぐ」は、切れ目なしに繋がった風景として構成されていますが、幾つかの塊が存在します。
それを順にご覧下さい。
画廊空間の大部分を占める黒いタイルが敷き詰められた面は、美術的には台座の役割を果たしていますが、それを大きく超えて、作品世界の基盤になっています。
それは清岡さんの作品の根底にある、水を表していて、それは各部を繋ぎ、旅の通路になっています。
上は画廊入口から見て、左側に設置された塊で、二段のテーブルとオブジェ、キャンバスなどで成立っています。
オブジェは前回の展示を利用したもので、(極地のような)島と海の風景を模しています。
テーブル下部とその下に収められたオーディオケースは、砂で端正にコーティングされています。
黒い世界と白い世界が断絶しながら繋がっている、塊です。
中央にある塊です。
透明な四角いボックスとその上のオブジェ、ボックスの中の重ねられた額縁。
これらは奇妙な形で連鎖していて、額縁を上から覗くと、底なしの井戸の様で、空中には虹色のディスクが延々と浮いています。
右奥は、長方形の箱のような形で面が上がっています。
その上には、ヘッドホンとオブジェ。
音(音楽)はここから流れています。
ヘッドホンを耳に掛けるのも自由で、世界を聴覚から眺めることもできます。
左は、壁面に展示されたドローイング作品です。
旅の計画書であり、スナップショットです。
右は道路側入口に設置されたオブジェとガラス、額縁等の塊。
今回の展覧会用に清岡さんが記した文章があります。
以下に転載させていただきます。
作品とは、言葉の編み物のようなものです。
「青色が、泣く。」「雫が、叫ぶ。」というように、日常使われている言葉とは違う編集を視覚的に試みています。
先入観では見えにくいのですが、そこには言葉のずらしがあり、理路整然とした言語表現から、はみ出していく、そんな中で、緩やかな響き合いを作品で追っています
私は作品を歴史的な価値判断において狭義な美術と呼ばれる世界にあえて、別の視覚性(物事の繋がり)を神話的に構築したいと考え、提示しています。
神話的いうのは非歴史的という意味です。
私は日本人として生まれましたが、大半の日本人が承諾している移植の美術には追随しません。
私の作品は日本から生み出された裂け目であり、割れた歪みに位置した、境界の風景です。
ファンタジックな世界、細密画、明快なコンセプトも良いですが、最終的には言葉を繋ぐ編集の仕方にこそ、日本人として表現の可能性を感じています。
建築は解け、床の台座は海岸のごとく水を描く。並べたキャンバスは滝となり、描かれないで音を出す。
聴こえる音は小さな舟を動かし、映り込んだ虚像が音楽を彫る。
空気のように、テーブルのように、何の変哲もない庭の彫刻が、場所との結縁を再び漕ぎ始める。
美術というよりは旅する言葉として、密やかですが、風景に置き換えた質をつくり続けています。
8月12日 清岡正彦
「青色が、泣く。」「雫が、叫ぶ。」
言葉を編んだ清岡さんの喩えは、作品の本質を的確に伝えています。
本来は結びつくことのない言葉(事物)が、繋がることによって、風景の地平をメビウスの輪のようにしています。
わたしたちの認識している時間(歴史)と空間は、垂直と水平になっていて、その交わる一点だけが現在です。
しかし、神話的世界は大きな循環構造になっていて、時間軸と空間軸はあらゆるところで交わっています。
清岡さんの作品の「編集」は、まさに時間軸と空間軸を自在に交錯させ、次元を超えた結節点を表出させています。
小さな舟とは、わたしたちの意識であり五感です。
わたしたちは、旅をしている。
それは生から死への旅と称されていますが、生と死は結節点(結縁)であって、始点と終点ではありません。
旅に始まりもなければ、終りもありません。
神話的構造とは、そのようなものです。
風景とは、眺めるものではなくて、わたしたちを存在させているものです。
そのような認識が、清岡さんの作品のベースにあります。
それ故に、わたしたちの旅は、眼前の風景とは離れたところにあります。
では、わたしたちを誘(いざな)う風景とは何処にあるのでしょうか。
画廊に、水の音が聴こえます。
それは連なって、一つの調べを奏でています。
それは、一つの、旅の入口です。
そこから風景は拡がります。
旅の入口は一つではありません。
至る所にある風景の結節点(結縁)が、旅の入口です。
清岡さんの編集した風景の、通路になっているのは水です。
結節点(結縁)で水は様態を変えますが、通路は繋がっています。
結節点(結縁)の前後が遠く離れていても、それは繋がっています。
作品タイトル「遠くを繋ぐ」とは、そのような意だと思います。
その繋がりの内(なか)に、わたしたちは存在しています。
その繋がりとは、静態ではなく動態です。
風景は一瞬たりとも休まず変化し、わたしたちは変化の流れの中で存在しています。
そのような風景を描いて、(わたしたちを)誘っているのが、清岡さんの作品です。
靴を脱げば、そこに小舟はあって、わたしたちは旅の途上にあるのです。
ご高覧よろしくお願い致します。
2007年藍画廊個展「風景に還る I」
2007年藍画廊個展「風景に還る II」
作家Webサイト
会期
2007年8月11日(月)-8月23日(土)
日曜休廊
11:30am-7:00pm(最終日6:00pm)
会場案内