入口横右壁面の作品です。
室内、のようです。
角の両側の窓から光が差し込んでいるのが、分かります。
横長の画面がクラシカルな構図を生んでいます。
風景とは、具体的な一つ一つのモノから成り立っています。
カメラのピントを徐々に外していくと、具体はゆっくりと抽象に変化していいきます。
純粋な色と形に、変化していきます。
浜田さんの作品は、ギリギリ具体を残して、つまり風景の体裁が壊れないところでシャッターを切っています。
ある意味で、風景の限界を捉えています。
わたしは近眼で、眼鏡をかけています。
眼鏡を外すと風景はボケボケで、丁度浜田さんの作品のように映ります。
そこで困るのは、思考が停止してしまうことです。
モノに焦点が合わず、通常の思考回路が止まってしまうのです。
それこそ、浜田さんの狙いかもしれません。
思考を停止させる。
ギリギリ具体を残して、思考を混乱させる。
いつも見ているものが写っていても、気が付かない。
あるいは、未知の風景なのに、あたかも既知の風景のように見える。
その混乱から導かれるのは、記憶の問題です。
記憶の曖昧さであり、記憶の不可思議さです。
もっと突っ込めば、風景とは記憶による視覚現象なのかもしれない、という問いです。
その問いを成立させるためには、極力ニュートラルな方法論を採る必要があります。
ありふれた日常の、ありふれた風景を、ありふれたカメラとレンズで、無作為に撮る。
そのような方法ですね。
しかし、もしわたしがそのような方法で撮影したとしても、このような美しい作品は作れません。
(プリントアウト後の処理は作品の重要な要素ですが、問題を明確にする為にあえて無視します。)
画廊に展示された作品は、喩えようもないくらい美しい。
どこをどうしたら、ありふれた日常風景がこのように美しくなるのか。
浜田さんに尋ねたとしても、多分、答えられないでしょう。
だとしたら、自分で考えるしかありません。
極力ニュートラな方法を採っても残るものは何か。
それはいうまでもなく、個性です。
その人をその人と区別する、何かです。
個性を発揮するのが芸術といわれていますが、個性を排した後に残るのも、個性です。
その個性こそ、誤魔化しの効かないその人です。
自然に露出する個性です。
ギリギリの(風景の)具体と、ギリギリの個性。
この二つが重なって、作品はわたしたちの眼の前にあります。
そこで必要なのは、再び思考することです。
立ち止まり、混乱した頭を解きほぐして、見ることです。
ご高覧よろしくお願いいたします。
浜田涼藍画廊2001年個展
浜田涼藍画廊2002年個展
浜田涼藍画廊2003年個展
浜田涼藍画廊2004年個展
浜田涼藍画廊2006年個展
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