伊藤寛幸展の展示風景です。
幾分落された照明に平面作品が並んでいます。
作品は、平面としては若干低めの位置に展示されています。
上半身を少し折り曲げて作品に見入ると、作品の向こう側から光が来ているような錯覚を覚えます。
壁面全体がライトボックスで、光を透かして、描かれた事物が影のように浮かんでいます。
画廊入口から見て、正面と右側の壁面です。 左から、作品タイトル「milk」で、サイズは65(H)×80(W)cm、 「curtain」で、65×80cmです。 「dandelion 」で、15×20cm、 同じく「dandelion」で、20×15cmです。 |
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入口横右の壁面です。 「shadow」で、42×59.4cmです。 |
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左側の壁面です。 左から、「milk」で、65×80cm、 同じく「milk」で、30×30cmです。 |
展示作品は以上の七点で、「dandelion 」のみがハーネミューレ紙にエッチング、その他全点は綿布にアクリル、パネルを使用しています。
左壁面の「milk」です。
容器に入れられたミルクの表面。
そこにミルクのドロップ(滴)が落下された瞬間、を描いた作品でしょうか。
落下の反動で、ミルクは瞬間的に王冠の形を作っています。
高速シャッターの写真でお馴染かもしれませんが、淡い描写の在り方に眼が留まります。
止まることを知らず、絶えず変化しているすべての事物を、慈しむような絵画です。
同じく左壁面の「milk」です。 同じような絵柄ですが、王冠が白く、上の作品より開いています。 絵画全体が、光で透過された膜のように見える作品です。 |
次も「milk」ですが、趣が異なります。
正面壁面の「milk」です。
ドロップではなく、流し込まれているミルクと、表面の変化を捉えた描写でしょうか。
ハイパーリアリズムのようで、それとは違い、(写真的リアルよりも)絵画的リアルに足場を置いた作品です。
正面壁面の「curtain」です。
窓の外から差し込む光。
カーテンの布地を透して、光が部屋を満たしています。
光を描いているようで、その実、影を描いた作品だと思います。
(逆に、影を描いているようで、光を描いた作品ともいえます。)
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右壁面の二点のエッチング作品の左側の作品です。 dandelionはタンポポで、種をまとった様子が描かれています。 これも淡い描写で、コントラストの低い光と影の描写が特徴的です。 |
最後は入口横右壁面の「shadow」です。
風にそよいでいるような、樹木と葉。
実在とイメージが交ざったような感覚を覚える作品です。
前回個展のモチーフに連なる作品です。
絵画とは光の存在を扱った表現、といえるかもしれません。
少なくとも、絵画にとって光は主要なテーマです。
伊藤さんの絵画も、光と影(陰)をテーマにしています。
伊藤さんの絵画には、写真の雰囲気が残っています。
以前の作品はより写真に近い仕事でした。
写真は絵画以上に光と影に依存した表現です。
光をどのようにして印画紙や撮像素子(CCD)に取り込むか。
それが写真の表現で、原理です。
写真は一瞬の光景を切り取りますが、切り取った瞬間、その光景は過去になります。
いい方を変えれば、写真に写された光景は、今は存在しない事物の集積です。
事物は一時たりとも同じではなく、変化しています。
つまり、切り取った光景は死んでいます。
写真の本質は、そのような死と不可分であると思います。
強引な見方かもしれませんが、伊藤さんの絵画には、死と生が混在しています。
写真的な死と絵画的な生が、交わっています。
その交わり方は複雑で、単に写真のような絵画ではありません。
影(陰)とは光の反映ではなく、光と対になっているものです。
影(陰)も同じく、単独では存在しえません。
陰陽とは、そのようなことを指します。
光が透過したような画面には、確たる何かが欠けています。
画面にあるのはイメージだけでしょうか。
それも、違います。
もし事物の実体が運動、エネルギーだとしたら、瞬間は軌跡として表れます。
そしてその軌跡とは、影(陰)のようなものとして画面に定着、もしくは漂います。
確たる何かとは、人が勝手に写真や絵画に求めるイリュージョンに過ぎません。
生や存在の実の相とは、伊藤さんのように、影(陰)として描くものかもしれません。
(照明が)明るくて暗いような画廊の中で、そう思いました。
2004年藍画廊個展
2005年藍画廊個展