洲崎正隆展の展示風景です。
画廊入口から見て、正面と右側の壁面です。 左から、作品サイズ91.5(H)×117(W)×3.5(D)cm、 73×91×3cmです。 |
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入口横右の壁面です。 55.5×66×4cmです。 |
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左側の壁面です。 左から、24.5×33.5×2cm、 32.5×41.5×2cm、 14.5×18.5×2cm、 22.5×27.5×2cm、 24.5×33.5×2cm、 32.5×41.5×2cmです。 |
以上九点が画廊内の展示で、その他道路側ウィンドウに一点、芳名帳スペースに一点の展示があります。
作品はすべて木製パネルにアクリルです。
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左側壁面の二点です。
ボンヤリしてますね。
何が描かれているのか、分かりません。
眼を細めてみても、一向に認識できません。
近づいて見ると、微かに見える色は表層の奥から浮かび上がってきます。
同じく左壁面のコーナーに展示された作品。
真っ白な画面です。
何も描かれていない画面かといえば、違う感じです。
描かれているモノは不明ですが、描画されているのは事実です。
不思議な質感のフラットな平面で、白い透明な層が何層も重なったような印象です。
謎の絵画ですが、ここで洲崎さんが記したテキストを掲載します。
視覚は可視光を物理的入力とした感覚で網膜において符号化され(色、形、テクスチャ、空間的位置関係、動き)といった分解された情報を脳内に取り込み、そこから再構築して像として認識されるという。
視覚の特徴は対象から距離を置かないと、その全体像を把握出来ないことだろう。
それは観察者と対象との相対的な位置関係を前提としている。画廊空間に入ると、作品の中に内在してしまうような主客の曖昧な状態を経験する。
示される対象はいくつもある断片の一つであり、感知される認識のクオリア(意識を構成する経験の質感)は条件の違いで常に変化する。
ある緊張感をもって作品に対峙するとき、既存の日常的な視覚体験だけではない感じ方や見え方がある。対象物はその環境を含めて相互作用して、平面作品は基底となる壁面の存在なしには成立しないように、色彩も同様に周囲の状況と関わり合う。
視覚を基準とした観察者と対象物の二項の関係を超えて、自分の体験としてそこに非日常の現実が表出される。
少し難解な文章ですが、わたしなりに解釈すると、
脳が像を結ぶ前の(網膜の)状態を作品化する意図と思われます。
つまり、見る人固有の経験が介在する前の、視覚の状態です。
喩えていえば、生まれたばかりの赤ちゃんの見た世界です。
そう考えると、色、形、質、位置、動きが不明であることが理解できます。
言葉を換えれば、距離感を喪失した視覚といえます。
ホワイトキューブ(白い立方体)である画廊の中に展示された、距離感を喪失した絵画。
テキストの通り、作品の中に内在されたような感覚です。
あるいは、体内の網膜を後ろから見ている感覚。
正面壁面の作品です。
うっすら赤く見えるモノは何でしょうか。
花?
入口横右壁面の作品です。 |
洲崎さんの作品で特徴的なのは、作品のマチエールです。
表面はフラットですが、ツルツルしているような質感ではなく、光沢もありません。
マットな感じで、非常に木目が細かい。
制作過程を訊ねてみると、二十層近く塗られた色面を、その都度サンドペーパーでフラットにしているそうです。
絵具にメディウムを混ぜる割合も一定ではなく、意図的に透明度をコントロールしているそうです。
さて、洲崎さんの作品意図は、モノ(像)を見ることの意味です。
人は経験や学習によって、モノを認識します。
経験や学習が異なれば、同じモノを見ていても認識が違います。
コミュニケーションにもズレが生じます。
又、モノを(経験、学習に頼って)一旦認識すると、視覚は働きを止めてしまいます。
モノを眺め続けることができず、新たな認識の発見も為されません。
今わたしが見ているのは、洲崎さんの絵画です。
この絵画には、わたしの視覚(経験や学習)は役に立ちません。
ただ、見続けるだけです。
それだけが、わたしに残された武器です。
見続ければ、自(おの)ずと何かが見えてくるはずです。
ご高覧よろしくお願いいたします。
2004年藍画廊個展
2005年藍画廊個展