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iの研究



第五十六回 <狂犬>の研究(1)


アウトローという存在がある。
広義では社会の価値観とちがう生き方をする者をいうが、狭義では無法者のことをいう。
無法者も人間だから、社会がないと生きていけない。
無法者が作る社会の代表はヤクザである。
当然ながら、ヤクザ社会にも掟がある。
その掟にも従えない者もいる。
無法者社会の無法者である。
石川力夫は無法者社会の伝説的無法者であった。
狂犬、と呼ばれた。
飼主に噛みつき、無法者社会を敵にまわした狂犬は、暴れ狂ったあげく刑務所の塔から投身自殺した。
残された日記の最後に次の句が記されていた。
「大笑い 三十年の バカ騒ぎ」。


わたしがヤクザ映画を初めて観たのは大学二年生の時だったと思います。
ここでいうヤクザ映画とは東映のヤクザ映画のことです。
今、ヤクザ社会を舞台にした映画は、ヤクザ映画とはいわないで仁侠映画といっているようです。
レンタルビデオ店のヤクザ映画コーナーにはそう書かれたプレートが付いています。

東映がヤクザ映画を作り始めたのは、わたしがヤクザ映画を初めて観た4、5年前、つまり1965年前後と記憶しています。
その当時高校生だったわたしは、通学の帰りにどぎついヤクザ映画の看板をよく見ました。
知的なるものに憧れ始めたわたしは、その看板に一瞥して帰宅を急いだのでした。
わたしとは縁遠い、およそ関係ない世界の物語として。

ところが、大学に入学して全共闘なるものがキャンパスのスターになると、ヤクザ映画が俄然学生の流行(はやり)になりました。
知のトレンドが思わぬ方向に行って、少し狼狽えました。
ヤクザ映画を観ていないと、何となく遅れているような気分になりました。
もともと映画自体は好きでしたから、わたしメッカである新宿東映や新宿昭和館に足を運んだのでした。

観て驚いたのは、どれを観てもみんな同じということでした。
もう水戸黄門の世界というか、お約束の世界というか、呆れるほど同じ。
偉大なるマンネリズムの世界です。
(ラストの殴り込みのシーンになると、必ず主役のヘタな歌が流れるのにはさすがに辟易しましたが。)

なぜ学生の間でヤクザ映画が流行ったかというと、アウトロー同士の親近感、仲間意識だったんですね。
無法者の共感です。
スノビズムと共感があいまって、土曜オールナイトの新宿東映は満席で、ここぞという場面では学生の掛け声がかかりました。
「良し!」とかね。
何が「良し!」だか良く分かりませんが、時代の熱狂とはそういうものです。

わたしは在日韓国人/朝鮮人でしたから、全共闘ではありません。
全共闘に加わって逮捕でもされれば強制送還されてしまいます。
内政干渉になるからです。
外国籍の者がその国の政治に口出しするのは、ご法度です。

全共闘ではないけれど、心情的シンパであったわたしはその周辺でウロウロしながら学生生活を送りました。
時代のスターになれない鬱屈した内面を抱えながら、わたしは大学に通いました。
しかし、わたしの大学生活が楽しくなかったかというと、これが又違う。
「バカをやる」、という場が存在したからです。

このことは機会があったら改めて書きますが、煎じ詰めればわたしの青春の話です。
誰にでも一度は訪れる青春ですが、全共闘とはベクトルの違うところでわたし達はバカをやっていました。
(全共闘もバカをやっていたのです。)
所詮は学生という猶予された身分の範囲でしたが、何かを逸脱した、ハジけたような気分を味わいました。



わたしがヤクザ映画を観て、しばらくして気が付いたことがあります。
それは、様式美ということです。
形式に忠実で、しかもその中に固有の美がある。
形式は窮屈なものですが、実のある形式には無駄というものが無い。

ヤクザ映画で無駄を省いて残るものは、濃厚な人間の心情です。
それしか残らない。
正直いってわたしには濃すぎる心情でしたが、緋牡丹博徒シリーズはご贔屓でした。
藤純子扮する矢野竜子の、女としても男しても美しすぎるキャラが、素敵でした。
(矢野竜子は生物的には女ですが、社会的には男です。そう、オスカル様と同じです。)
特に、加藤泰監督の「お竜参上」がわたしのベストです。

様式美の東映ヤクザ映画が転換したのは、深作欣司監督の1973年制作「仁義なき戦い」からです。
わたしが大学を卒業する前後です。
この作品から東映ヤクザ映画は実録路線が主流になりました。
広島ヤクザの抗争をドキュメンタリータッチで描いた「仁義なき戦い」は、濃い心情という核は残しながらも様式を破壊していきました。

様式の中ではご法度で、最低限に抑えられていた流血がここで一気に噴出しました。
様式的ヤクザ映画の血は心に流れる血です。
実録ヤクザ映画の血は、切った途端に流れる血です。
この違いは大きいと思います。

深作欣司は「仁義なき戦い」シリーズでヤクザ映画の新しい地平を切り開いた人ですが、この人は東映にカルトなヤクザ映画を一つ残しています。
1975年制作「仁義の墓場」。
冒頭に書いた石川力夫を主人公にしたヤクザ映画です。

その「仁義の墓場」を2002年にリメイクしたのが三池崇史監督。
「新・仁義の墓場」が、その作品です。
わたしは「新・仁義の墓場」を昨年暮れにビデオで観たのですが、とにかく暗い。
暗い映画が好きなわたしが、絶句したほど暗い映画でした。

本題に入る前に、三池崇史に触れておきます。
この監督については、知ってる人は知っていて、知らない人はまったく知らない人です。
低予算で佳作を量産している、B級カルトの帝王です。
(三池映画の観賞は映画館よりレンタルビデオの方が多いのではないでしょうか。)
最近はテレビの二時間ドラマを演出していますから、一般的知名度もかなり上がっていますが、それでも映画好きでないと知らない監督です。

わたしが観た三池作品は四本ですから、多作で知られる三池崇史を語るには少なすぎます。
依頼された仕事はジャンルを問わず全てこなすという三池監督。
わたしが観たのはヴァイオレンス系の作品のみですが、恐らく彼の本領はここにあると思われます。
荒唐無稽でスピード感溢れる映像展開、過剰な血しぶきとグロな趣味。
スピルバーグの世界の正反対に、三池崇史の世界があります。

邦画でヴァイオレンスの先駆者といえば、前述の深作欣司です。
その深作欣司が影響を受けたと思われるのがサム・ペキンパー。
「ガルシアの首」、「ワイルド・バンチ」で知られる、ヴァイオレンスの詩人といわれた監督です。
深作欣司と香港ノワール映画の影響を受けたのがクウエンティン・タランティーノ。
「レザボワ・ドッグス」、ですね。
(香港ノワールも深作欣司の影響下にあると思います。)

三池崇史は深作、タランティーノ両者の系統に連なる監督です。
ま、これはわたしの勝手な分析ですが、そう外れてはいないと思います。
タランティーノのユーモアもしっかり受け継いでいるのは、彼らが同世代だからです。
三池1960年、タランティーノ1963年生れ。
どこかでハズさないと、自分自身に照れてしまう世代です。



三池崇史監督の代表作は「Dead Or Alive/犯罪者」。
刑事とギャングの物語です。
社会に適応できない二人の男の、鬱屈した激情の交錯がストーリーの柱です。
ここにあるのは善と悪ではなくて、社会を突き破ろうとする意志と行動です。
ハミ出した(ハジけた)男と男が最後に激突して、とんでもないラストを迎えます。
荒唐無稽を通り越して、ただただ唖然としてしまいます。
(ビックリしたい方は、観てね。)

実在のヤクザだった石川力夫は、世間からハミ出し、ヤクザ社会からもハミ出して自死した男です。
凶暴で疫病神みたいな男と関わった人間は、彼の暴走の巻き添えをくった被害者ともいえます。
同情の余地のない男の人生が二度も映画化されている。
考えてみれば不思議なことです。
その謎を、考察してみます。

「仁義の墓場」には原作があって、深作版はほぼそれに忠実に作られています。
三池版は時代設定を変え、主人公の名前も変えて、フィクションであることを断っています。
深作版は戦後の動乱期を舞台にしていますが、三池版は1980年代前半、つまりバブル期が舞台です。
三池版では、石川力夫は石松陸夫で、ストーリーも若干違います。
ここでは三池崇史の「新・仁義の墓場」を中心に話を進めていきます。

一人の男が刑務所の塔からダイブする。
男の名前は石松陸夫。

石松は偶然ヤクザの総長の命を救ったことからヤクザ社会に足を踏み入れる。
総長直下の子分として順調に出世するが、他の組織の有力者を殺害して服役する。
その時、石松には強姦同然で内縁にしたホステスの智恵子がいた。
服役中に同じヤクザの今村と意気投合し、兄弟の縁を結ぶ。
五年後出所し、しばらくは平穏な生活が続いたが、総長への借金依頼の話の行き違いから、予てからソリの合わなかった組の本部長を半殺しにしてしまう。
あろうことか、総長にまで発砲して重傷を負わせて、逃亡する。
頼った兄弟分の今村に隠れ家を提供されるが、待遇に不満をぶつける。
組同士の抗争を恐れた今村の側近が警察にタレこんで、石松は銃撃戦の末逮捕される。
拘留中、故意に腐らせた牛乳を飲んで病院に搬送された石松は隙をついて脱走し、今村を殺害して、その妻にも深手を負わせる。
逃亡中に覚えたヘロインを打ちまくる、石松と智恵子。
再び組事務所に現われた石松は組員と撃ち合いになり、瀕死の重傷を負って収監される。

冒頭シーンの続き。
ダイブした男は、庇に身体を打ちつけ、大量の血を噴出させて落下。

石松陸夫を演じたのは岸谷五郎です。
わたしが岸谷五郎を知ったのは、「月はどっちに出ている」の在日タクシー運転手役です。
見るからに在日風の風貌と、とぼけたキャラクターが印象的でした。

本作では、パンチパーマに剃りを入れ、眉毛も半分剃って役にイレ込んでいます。
減量(5,6キロ)で頬がこけ、目つきが際立って険しい風貌。
この岸谷五郎、怖いです。
何を考えているのか分からないような、ぶっきらぼうで抑揚のない台詞回し。
岸谷五郎が作り上げた、石松陸夫の像です。
しかし気合いが入ってますねぇ、岸谷五郎、全身で演技しています。

深作版では渡哲也が石川力夫を演じています。
これも意外で、渡哲也にそんな役ができるのだろうかと思いましたが、いつもの渡哲也でありながらしっかり石川力夫(石松陸夫)でした。
直情的な凶暴さとニヒルな暗さを、自己のキャラクターから上手く引き出した演技でした。

内縁の妻を演じたのは有森也実(三池版)と多岐川裕美(深作版)。
後述するストーリーの違いもあって、有森也実の方が圧倒的に存在感があります。
多岐川が薄幸の女性のステロタイプであるのに対して、有森の方はそこから抜けたキャラを獲得しています。

<第五十六回終わり>

<狂犬>の研究(2)に続く




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