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iの研究


第二十一回 <真実>の研究


真実とは、「ほんとうのこと」です。
真実について常日頃考えている人はそう多くはないでしょうね。
わたしもほとんど考えたことがありません。
思い出したように、時々は考えることもあります。
考える時は何かきっかけがあります。
そして、予想もつかないところからそのきっかけがやって来る時もあります。

一度観た映画を、時をおいて観る。
これは結構楽しい娯楽です。
思い違いに気が付いたり、新たな見どころを発見したり、俳優に対する見方も変わったりします。
初見と再見の間隔が長いほど、ギャップが大きくて面白い傾向があるようです。
ある意味では、あの時の自分との対面といった要素もありますね。
映画を再見しながら、当時それを観ていた自分の視点をも同時に再見しているのかもしれません。

何故その映画をもう一度観たいのか。
その理由は判然としない場合が多いのですが、どうしても観たくなる時があります。
そこには、今自分が観たい何かがあるような気がするからです。
その予感は当たる時もあり、当たらない時もあります。

「レザボワ・ドッグス(Rwservoir Dogs)」。
この映画をわたしはどうしてももう一度観たくなりました。
初見の時はこの映画の斬新な語り口とスタイリッシュな映像が印象的でした。
「レザボワ・ドッグス」は1991年の製作です。
人は存外表現の意匠に惑わされて中身を掴みそこねる時があります。
九年という月日は意匠を落ち着いたものにするには充分な時間です。

監督はクウエンティン・タランティーノ。
「レザボワ・ドッグス」がデビュー作で、その後「パルプ・フィクション」「フォー・ルームス(オムニバス)」「ジャッキー・ブラウン」を撮っています。
九年間で三本とオムニバス一本。
意外に寡作な監督と言えます。
もっとも監督以外に製作や俳優としての出演作が何本もありますから、露出度はそれなりにあります。
この人はお喋りです。
テレビでシノラーと話しているのを見たことがありますが、シノラーを上回るお喋りでした。
そして、この人は小話が好きです。
「レザボワ・ドッグス」を再見して台詞の多さに改めて驚きました。
「レザボワ・ドッグス」は、マドンナの「ライク・ア・ヴァージン」にまつわる小話からスタートします。



男達は宝石強盗を実行するために集められた。
互いに名前も素性も知らないプロの強盗である。
彼らには名前に代わりに、ブルー、ブラウン、ブロンド、ホワイト、ピンク、オレンジというコードネームを与えられる。
与えたのは、首謀者である顔役ジョーとその息子エディー。
完璧な計画のはずが、彼らは宝石店で警察隊の襲撃を受ける。
誰かが警察に通じていたのだ。
命からがら集合場所に集まった彼らの心に、仲間への不信感がわき起こる・・・・。

物語は、ホワイト(ハーヴェイ・カイテル)が後部座席に瀕死の重傷を負ったオレンジ(ティム・ロス)をのせた車を運転しているシーンから唐突に始まります。
「事後」から物語が始まります。
以降、時間を交錯させながら強奪の現場で何が起こったかを観客に説明していきます。
この映画が秀逸なのは、宝石店に押し入るという肝心のシーンを最後まで見せない事です。
俳優の台詞で、観客はそのシーンを想像することになります。
一番オイシイ所を敢えて見せない。
オシャレですね。

ホワイトはオレンジを励ましながら集合場所である倉庫にたどり着きます。
暫くするとピンク(スティーブ・ブシェミ)もやって来ます。
気を失ったオレンジを置いて二人は別室で話します。
ピンクは、状況からして仲間に警察の犬がいると主張します。
そして、ホワイトがオレンジに自分の素性を喋ってしまった事を非難します。
そこから「足がつく」かもしれないからです。
ホワイトは反論します。
オレンジが撃たれたのは俺のミスからだ、もうすぐ死んでいくやつに尋ねられてお前はウソを言えるか、と。

その後、現場の混乱に拍車をかけた異常な殺戮者ブロンド(マイケル・マドセン)が警察官の人質一人を引き連れてやって来ます。
ホワイトとピンクが逃走途中に隠した宝石を確かめに行っている留守に、ブロンドは人質にサイコな拷問をかけます。
警察の犬が誰であるかを吐かせるためです。
結局口を割らない警察官をガソリンで焼き殺そうとした時、ブロンドは撃たれます。
床で大量の血を流しているオレンジに。
オレンジは、自分がロス市警の刑事だあることを警察官に告げます。
誰が警察の犬か、という物語の軸がここで明かされます。
これも意外な展開です。
謎は最後まで引っ張るのが定石だからです。
ここから観客は、「真相を知った立場」で続きを見ることになります。
それが最後の最後に効いてくるシクミになっています、この映画は。

首謀者のジョーとエディが倉庫に到着すると、エディがあっさり警官を射殺してしまいます。
エディとブロンドは親友で、そのブロンドを撃ったオレンジを激しく攻撃します。
ジョーも、オレンジが匂っていたと言って銃を抜きます。
ホワイトは、オレンジは絶対に犬ではないと主張して彼を守るために銃とジョーに向けます。
エディも反射的に銃口をホワイトに向けます。
床に倒れているオレンジはエディに銃口を向けています。
三すくみの状況です。
誰かが引き金を引けば連鎖で全員死にます。



「真相を知った立場」の観客は、そこでホワイトが重大な過ちを犯しているのを目撃します。
そして多分観客は、彼が過ちを犯しているのにも関わらず正しいと思うのです。
ホワイトとジョーは仕事上旧知の中で、お互いを尊重しています。
そんな関係より、ホワイトは袖擦りあうような関係であるオレンジを選んだ。
それが、「真相を知った立場」の観客に投げられた最終的な謎です。

エディの発砲を機に四発の銃弾が飛び交い三人が床に崩れ落ちます。
辛うじて上半身だけ起き上がったホワイトはオレンジの所に這っていきます。
そこで、オレンジは最後の力を振り絞って自分が刑事である事を告白し許しを請います。
オレンジを抱きかかえたホワイトは銃口をオレンジの喉元に突きつけます。
倉庫の外では警察隊の足音とざわめきが聞こえて来ます。

ここから一分弱がこの映画のクライマックスです。
ホワイトは、自分が取り返しのつかないドジを踏んだ事に気が付きます。
悔やんでも悔やみきれないドジです。
彼は悪党のプロです。
悪党は人を信用してはいけない職業です。
仲間との仕事上の信頼はあっても、信用はしないのがプロです。
人を信用した時、そこから悪党の破滅が始まります。
それを重々承知している自分が一番肝心なときにドジを踏んだのです。

しかし、それと同時に彼は真実に直面したのです。
オレンジとの間にある真実に。
ホワイトの苦渋と激情の入り交じった表情。
それは、彼に二つのものが同時に襲ったからです。
過ちと真実が。

ハーヴェイ・カイテルは不思議な俳優です。
短躯な体形から強烈な空気を発します。
月並みな言い方ですが、存在感があって人を魅了する色気を持っている俳優です。
タランティーノの脚本を気に入ったハーヴェイ・カイテルは、この映画の製作も担当しています。
ラスト一分弱、ここでハーヴェイ・カイテルは物凄く濃い演技を見せます。

警官隊が倉庫のドアを蹴破った時、ホワイトは引き金を引きます。
そして、数秒後に撃たれて死にます。



わたしは、ホワイトが引き金を引いた意味が暫く解りませんでした。
オレンジを選んだホワイトは何故引き金を引いたのか。
それは、こういう事だと思います。
悪党としての人生を全うする、それが彼の決断です。
ドジを踏んだ自分に対するケジメです。
悔いがある人生だった事を潔く認めた行為です。
そして、それは彼が直面した真実とは矛盾しない。
何故なら、悔いが有ろうと無かろうとそこで直面した真実を大切にしたからです。
真実はオレンジの肉体に有るのではなく、ホワイトとオレンジの間(あいだ)にあるからです。
真実とは間にあるモノなのです。

この映画は、途中で観客を「真相を知った立場」にしてしまいます。
問題なのは真相ではなく、真実です。
「ほんとうの事情」ではなくて、「ほんとうのこと」です。

「ほんとうのこと」は間(あいだ)にあります。
人と人の間にあります。
それを直接見ることは出来ないし、触ることも出来ません。
真実は概ね突然顕れて、人を動揺させます。
真相に目をつぶることは出来ても、真実にはそれは出来ません。
真実とは心の有り様ですから、それを握りつぶすわけにはいかないのです。

極限状態で、ホワイトの心の有り様とオレンジの心の有り様の間に生まれたモノ。
それが真実です。
真実は、日常では潜んでいるモノです。
なかなか姿を現さないモノです。
しかし、その芽は至る所にあるのかもしれません。
気が付かない所に真実は潜んでいます。
ホワイトとオレンジの心にもその芽がありました。
それは、映画のさり気ないシーンで描かれています。
当事者も気が付かないような。

真理という言葉もあります
科学や宗教で使われる言葉です。
この言葉には客観性が付属します。
真理は、誰が観てもそれが「まこと」でないと意味をなしません。
そういう説得力が必要とされる言葉です。

真実はどうでしょうか。
わたしは、この言葉には主観が似合うような気がします。
人は、好むと好まざるに関わらず生きることを余儀なくされています。
そして、不幸にもその意味を考えてしまうのです。
生きる過程は人それぞれ、それこそ千差万別です。
しかしながら、どれととっても生きるということは重さを伴います。
その重さから真実は生まれるような気がします。
固有の重さ、つまりそれを背負う主観を前提に真実という言葉は成り立っていると思います。



ホワイトが直面した真実の中身を、「信じる」と言ってしまうと何か違う感じがします。
近いのだけれども。
「信じる」と言葉で書いてしまうと、何かウソ臭いですね。
この言葉は。
「愛」、これもちょっと違う。
男と男の間に生まれたモノ、だからこれは同性愛と考えるのも間違いですね。
この映画をそういった読み方で観てしまうと酷くつまらないものになってしまいます。

彼は生きることの意味、生きてきたことの意味に直面したのです。
死の直前に。
それは別に特殊なことではなくて、真実は往々にして極限状態に顕在化するものなのです。
死に直面したとき生の意味がクッキリと浮かび上がるのは、考えてみれば不思議でも何でもありません。
日常とは、生には限りがあるという当たり前を忘れたふりして過ごすことですから。
ホワイトが死の直前に見せた表情を言葉にすることは、やはり出来ません。
真実以外の言葉では。
「彼の真実」で充分です。
掃き溜めの犬(Reservoir Dogs)が最後に直面した真実
真実とはそういったものであり、だから説得力を持つものだと思います。




いやはや、暮れの忙しい時に何故か真実を研究してしまいました。
まさか「レザボワ・ドッグス」で真実を研究するとは思いませんでした。
予想もつかないきっかけです。
最初に観たときには考えもしなかったことです。
記憶に残る映画とは、何度観ても新たな発見がある映画のことでしょうか。
(↑ズサンな映画の見方を正当化する言説ですね、これは。)

では、21世紀に又。

<第二十一回終わり>




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