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iの研究



第五十七回 <狂犬>の研究(2)


石松陸夫は狂犬で、それに噛まれた人たちは被害者です。
狂犬に手を出したわけでもないし、それぞれの社会の流儀にそって振る舞っただけです。
社会にはルールがあり、それを破ってまで関係すれば自己も破滅してしまいます。
ギリギリの自己保身は許されるべきものであり、けして非難される筋合いのものではありません。

兄弟分の今村のとった行動はまさにそれであり、厄介者の石松を手厚く匿い、側近のタレこみは今村のあずかり知らぬことです。
問答無用で殺害した石松の行動は、非難されても同情の余地はありません。
総長襲撃も「ボタンの掛け違え」を原因にしていますが、直情型で思い込みが激しい石松であれば、いつかは同じ行動に出たと思います。

ヤクザの社会で総長、組長は自分の親です。
飼主に噛みついたら、その犬は生きてはいけません。
それが最低限のルールであり、それを破った者は、その社会から姿を消さなければなりません。

どうして石松陸夫のような男が育ったのでしょうか。
三池版では生い立ちにはまったく触れていません。
深作版でも、少年期の近所の評判が映画の冒頭で少し語られているだけです。
「悪童ではあったが、頭の良い子供だった」と。

これは月並みといえば月並みな憶測になってしまいますが、愛情の問題ではないでしょうか。
著しく愛情が欠如していたか、あるいは愛情のバランスを欠いて育った。
精神疾患や遺伝子の問題で説明するのは、人間をあまりにも過小評価しているような気がします。
人間の可能性は、方向性を問わず、思っている以上に広いと思います。
石松陸夫は生まれついての狂犬ではなくて、正気のまま狂犬になってしまった男なのです。
そうでなければこの映画(オリジナルもリメイクも)を観て、心に石が置かれたような重さを感じるわけがありません。

愛情の問題により深く突き進んだのは三池版です。
石松陸夫と智恵子のラブストーリーを、映画の太い横軸として織り込みました。
岸谷五郎が撮影後語った「究極のラブストーリー」が、それです。

石松陸夫が智恵子をカラオケボックスで待ち受けるシーン。
初めて二人が相対する場面です。
マイクを口元に寄せて低い唸り声を発している石松。
私見では、この暗い映画の最も暗いシーンです。

(ついでながら、深作版の最も暗いシーンは、死んだ内縁の妻の骨壷を持ってかつての組長を訪ねる場面。
理不尽にも事務所を建てる土地と資金を無心し、話の途中で骨壷を開けて遺骨をカリカリと食べるシーンです。暗いというよりは怖いシーンかもしれません。)

(歌う歌がなくて)低い声で唸るだけの男。
その不気味なシチュエーションに怯える智恵子に無理やり鮨を勧め、あげくの果てに犯してしまう男。
歌を歌えない男とは、愛を語ろうにも語り方を知らない男であり、愛情の授受が分からないで育った男のことです。
どうしてそんな男に女はついて行って、共に破滅の道に走ったか。
これも映画の謎です。

それは、この男のただならぬ愛憎の深さに途中で気がついたからです。
恐れ、怯えながらも、男の強引さに引きずられていった女は、途中でそれに気がついた。
その時、引き返せない自分も同時に発見したのです。
石松ほどの狂気はないが、自分も同じ種類の、心の中に激しいものを持った人間であったことに。

後は、セックス、ドラッグ&ロックンロール。
つまりは、パンクです。

三池崇史の「新・仁義の墓場」はヤクザ映画でありながら、パンク映画でもあります。
それを端的に語っているのは、ラジカセから流れるパンクロックを聴きながら、隠れ家で拳銃を乱射するシーンです。
愛憎の激しさをヘロインによって鎮静し、それに溺れる石松と智恵子。
横たえた身体をごろごろ回転させて、ギターをかきむしるように銃の引き金を弾く石松。
放たれた銃弾には的がなく、虚しく飛び散るだけ。
三池崇史の体質もパンク的であり、その映画の多くはハジけてしまう男が主役です。



考えてみれば、ロッカーはヤクザであり、ヤクザを辞めたロッカーは唯のポップスターにすぎません。
だから、パンクは生れました。
成熟して商業主義になったロックに刃を突きつけたのが、パンク。
「おまえらヤクザ(無法者)じゃなかったのか!」と。

パンクは、あまりにも単純な形式しか持っていなかったために短命に終りました。
石松陸夫という人格も、恐ろしくシンプルな構造で成り立っています。
怒れば相手構わず噛みつき、傷つけてしまう。
その行動形態のストレートさは、観客にある種のカタルシスをもたらします。

石松陸夫は愛した者がちょっとでもそっぽを向くと、その感情は激しい憎悪に変わってしまいます。
愛するか、傷つけるか、その中間がないのが石松陸夫。
智恵子は、そんな石松に応えられる女を自分に発見してしまったのです。
ハジけるのが男の夢想だとしたら、心のどこかで中間のない激しい愛を指向するのが女です。
(女は優し男が好きですが、それとは矛盾するように激しい男も好きです。)
岸谷五郎が「究極のラブストーリー」と語ったのは、そういうことだったのです。

石松陸夫の愛情表現は、激しい性と愛した者を守る暴力だけです。
自分勝手な激しい性と暴力。
その闇のような性と暴力を受け止めた智恵子。

三池崇史が「ベティ・ブルー」、「シド&ナンシー」を意識していたのは間違いないと思います。
リメイクという難しい作業を成し遂げられたのは、オリジナル版のラブストーリーを拡大して、自分の物語として語ったからです。
緻密な計算に基づいた、力業(ちからわざ)です。
(もともと、三池崇史とは力業で映画を作る人なんですが。)

三池崇史はパンクですが、深作欣司はどうでしょうか。
深作欣司はパンクを知らないと思いますが、深作欣司もパンク的体質の人です。
ハジけてしまう男を描き続けた監督です。

深作版の舞台は終戦直後のドサクサから秩序が徐々に形成された時代までです。
アナーキーな時代の空気の中で、ノビノビとした生き方をしていた石川力夫が、秩序にハジき出されるまで。
無法がまかり通っていた特殊な時代が終焉して、管理が浸透してきた時、石川力夫というハジけた男は地獄に堕ちたのです。

平和とは、秩序が保たれている、言い換えれば管理が行き届いる社会状態を指します。
(その秩序の良し悪しは別ですが。)
動乱とは、その秩序が乱れて、価値が混乱した状態を指します。
多くの人は平和を好みますが、稀に動乱を好む人がいます。
血の気が多くて、「ケンカが好きな人」です。

貴方の周りにも、一人や二人はそういうタイプの人がいると思います。
多分に困った人たちですが、その激した思いを無下にできないのも事実です。
多くの人は、ハミ出さない自分に安心感を持つと同時に、ハジけない自分に物足りなさも感じてしまいます。
アンビバレンツな、自分です。

バブルの絶頂期にヤクザになり、己を飛翔させた石松は、バブルの終焉と共に行き場をなくします。
バブルとは価値の混乱が一時的に起きた、バカ騒ぎです。
戦後のドサクサも、、バカ騒ぎ。
祭りの後の静けさは秩序の始まりであり、その静けさに馴染めず、居場所を見つけられない男。

秩序が形成されてくると、そこには澱(おり)のようなものが生れます。
安定と引き換えに、身体から滴(しずく)のように地面に垂れていく澱。
もしかしたら、石川力夫(石松陸夫)はその澱なのかもしれません。
狂犬に同情の余地はありません。
だけど、人がそこに自分自身から染み出した澱を見たのなら、何かを感じてしまうのです。


深作版と三池版には幾つか共通するシーンがあります。
(三池崇史が深作欣司に捧げたオマージュですね。)

ラストの刑務所の塔のシーン。
カーキ色の毛布を頭に被って両手で広げ、あたかも翼のようにしてダイブする石川力夫(石松陸夫)。
鳥が空に飛び立つように。
しかし、彼が到達したのは空ではなくて冷たいコンクリートだった。
コンクリートにあたったとき、彼が流したのは大量の赤い血だった。

<第五十七回終わり>





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