iGallery企画「世界」の2011年展は、高柳恵里さんの個展です。
展示風景をご覧下さい。
画廊入口から見て正面壁面方向の展示です。
左は、タイトル「服と石」でサイズ105(H)×420(W)×395(D)mmで服・ビニール袋・石を使用、右は「バッグの中身」で210×297(フレーム 561×401)でカラープリントです。
右壁面と入口横壁面方向です。
左は「自由な紙管」でサイズ可変で5 本の紙管を使用、右は「右へ」で240×210×100(概寸)でビニール袋・クリスタルを使用しています。
小展示室です。
「salad」で210×297(フレーム 561×401)でカラープリントです。
以上の5点で高柳恵里展「このようにしてあると思える突然の瞬間」は構成されています。
左壁面と正面壁面の角に床置きされた「服と石」です。
二個の石とビニール袋に包装された服が置かれています。
服は千鳥格子のブラウス。
さて、もしこの服がビニール袋に包まれずに裸で置かれていたとしたらどうでしょう。
石は河原を想像させ、そこに捨て置かれた女性の洋服。
いきなり生々しさが生まれて、わたしたちはドラマや事件性をそこに見てしまうかもしれません。
しかしビニール袋一枚の介入は、事態を一変させます。
そこにあるのは二個の石と商品で、無関係という関係で結ばれた事態と造形が浮かび上がってきます。
正面壁面の「バッグの中身」です。
通常、バッグの中身はとてもプライベードなものです。
その人の多少なりの私生活がそこにあります。
バッグの口が少し開いていて、それが覗き見えるとしたら・・・・・。
そのようなシチュエーションを意図的に作り出し、撮影したのが、上の作品「バッグの中身」です。
そして、視点を変えて、バッグの中身を美術的(?)に造形しています。
つまり、一見プライベートの露出のように見せかけて、実は完全に構成、計算された写真作品なのです。
右壁面の「自由な紙管」です。
何が巻かれていたのか知りませんが、紙の管が5本自由に立て掛けられたり、床に置かれたりしています。
問題は自由です。
普段わたしたちは、このようなモノを無意識に自分の支配下(コントロール化)に置いています。
それを自由にしてあげる、という壮大な意図の基に制作されたのがこの作品です。
しかし自由というものは厄介なもので、自由にしようとすれば、自由という意図が付着してしまう。
それを奇跡的に自由にさせたのが、上の作品。
何と自由で伸び伸びとした紙管たちでしょう。
空間と紙管が戯れつつ、緊張感も併せ持った力作。
(力作ながら、力を入れず自由にさせているのが、見事な手腕。)
入口横壁面前の「右へ」です。
この画像では分かり難いと思いますが、半透明のビニール袋にブランデーのカットグラス(クリスタル)が入っています。
上から覗いた画像をお見せしましょう。
「右へ」というタイトルは、グラスをビニール袋の右側に移動させたことを意味しています。
最初は左にあったものを右に移動させたそうで、その名残が右側の膨らみに見えます。
意味が無いといえば、これ以上意味が無い作品もないかもしれません。
しかし、何ともいえず美しい。
そしてその美しさは物体の美しさもさることながら、作品の概念の美しさが際立っているように思えます。
ただ単にビニール袋の中のグラスを左から右に移動させただけの作品がこれほど美しいとは。
謎の作品です。
小展示室の「salad」です。
これは高柳さんのある日の朝食のサラダを撮影したものです。
何の変哲もない朝食のサラダですが、いざ撮影となると、視点がガラリと変わります。
レタスとトマトの配置、フォークの置かれた角度。
造形物としてのサラダを意識すると、気になる事が次から次へと出てきます。
その視点の変化をそのままアクロバット的に作品化したのが、この「salad」という作品です。
画廊には高柳さんが本展に寄せたコメントが置かれています。
以下に転載いたします。
「このようにしてあると思える突然の瞬間」
そのものの「位置」を私なりに決めます。
その時、私は極力、自由な立場でありたいと思うのです。
ところが、自由かと思えば不自由であることに気付き、つくづく油断できないものだと感じることになるのです。
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■ 生活の中に位置を定めているものたちが、一切、その関係から放たれた有様。
■ ドラマを匂わせるアイテムであっても、また...。
■ この造形はこの場限りのもの。紙管は私から自由である。 物体と自由な造形的関係を持つ試み。
■ 袋の中で、左から右へ移動。
2011,10 高柳恵里
わたしたちの日常は、喩えてみると、テレビのワイドショーです。
日常を無理矢理簡略化しながら、解ったようなつもりで情報を消費していく。
そういった日々の繰り返しに、何かヘンだと思いながら、生活は止まりません。
そんなワイドショー的日常に、静かに(だけど過激に)疑義を唱えているのが、高柳さんの作品です。
高柳さんと会話していると、しきりにリアルという言葉が出てきます。
高柳さんにとって作品を制作するということは、そこにリアルなモノを現出させることです。
そのリアルなものとは、ある意味で消費されないモノのことです。
近代以降、資本主義社会は大量生産、大量消費で成立しています。
すべてのモノや事は商品として生産され、消費されていく。
そのような社会では、わたしたちは第一義に消費者という立場に置かれます。
その立場からモノを見ると、消費されないものがあっては不都合です。
なぜなら、生産、消費のサイクルが止まってしまうからです。
高柳さんは、あえて不都合なモノを作ります。
この社会では、不都合なものこそリアルだからです。
幸いなことに、美術は不都合を得意とする分野です。
一見すると美術から遠い所に存在するような高柳さんの作品こそ、美術の本質に近いところにあります。
固定された視点をズラす。
そうすると、今まで見えなかったものが見えてきます。
今度は見えて来たものの全貌を、余すこと無く見えるようにする。
(曖昧という調味料が必要な時もありますが。)
そうすると、そこにリアルで自立した世界が出現します。
それが、高柳さんの作品世界です。
あるいは、モノを管理下から自由に遊ばせる。
これは自身も記しているように、大変な難儀です。
モノと人間の関係の再構築だからです。
大げさにいえば、再構築は、それこそ世界を変えることになります。
それが達成された時、やはりリアルで自立した世界がそこにあります。
リアル。
ワイドショー的現実から最も遠いところにある世界。
リアル。
ちょっとしたモノの見方を換えたときのショックの現実化(作品化)。
リアル。
それこそが、美術。
ご高覧よろしくお願い致します。
2004年藍画廊個展
2008年藍画廊個展iGallery企画 「世界」2011
高柳恵里展
TAKAYANAGI ERI
2011年10月17日(月)-10月29日(土)
23日(日)休廊
11:30ー7:00pm(最終日-6:00pm)
会場案内