高柳恵里展の展示風景です。
入口から見て、左側と正面の壁面方向です。 左は、タイトル「生花」で、サイズは可変です。 右もタイトル「生花」で、サイズは可変。 両作品とも、花、葉、器を使用しています。 |
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右側と入口横右の壁面方向です。 左は、「憂愁」で、サイズは120×170×180cm。 札入れ、レシート、アクセサリーで構成された作品です。 右は、「Greetings(メリークリスマス)」で、600×900cm。 紙、鉛筆、色鉛筆を使用しています。 以上の四点の他、道路側ウィンドウに一点、芳名帳スペースに二点の展示があります。 |
作品を一点づつ、入口左から順にご覧いただきます。
「生花」、文字通り「いけばな」ですね。
現代美術の展覧会に、なぜ「いけばな」があるのでしょうか。
画廊入口に高柳さんが記したテキストが貼付してありますので、以下に転載いたします。
いけばなを試みながら感じていたのは、私はある定まった立場というものを持たないで良いということ。
そうでありながら、形を思い、造形もした。
「観賞」のイメージ。
定まった視点を持たなくても良い観賞。2004.6 高柳恵里
(改行は原文と異なります。)
「観賞」という行為は、確かに、ある定まった立場の上に成り立ちます。
では、「観賞」という既成の立場を外したらどうなるか。
そして、いけばなを試みたらどうなるか。
それでもやはり形を想像しながら造っていった、そうです。
そうやって制作した作品が、この「生花」ですね。
もう一点の「生花」です。
次は、右側の床に設置された「憂愁」です。
札入れにアクセサリー(ネックレス)にレシートです。
ショーウィンドウにディスプレイされたような、札入れとアクセサリーとレシート。
レシートを見てみると、高速道路のレシートとカフェのレシートです。
札入れとアクセサリーには関係ありません。
はて、はて?
この図を普通に見れば、札入れとアクセサリーのレシートを想像しますが、そういった先入観への批評でしょうか。
恐らく違うと思います。
この作品の基になった「何か」が何であるかは、高柳さんしか知らないことですが、その「何か」がここには表現されています。
その「何か」は高柳さんにとって大切で必要なものであり、わたし達にとっても大切で必要な「何か」であるはずです。
だから高柳さんはこの作品を制作したのです。
「何か」は、日常のフトした瞬間に姿を現す「何か」です。
例えば、貴方は目覚めたベッドのサイドテーブルに積もった埃(ほこり)に、フトした瞬間「何か」を感じたことがあった。
その「何か」の感じを、貴方は人には説明することが難しくてできない。
しかも、その「何か」は貴方はとって大切なものだと思っている。
高柳さんは、その「何か」を感じ、作品という形で制作することを美術と考えています。
美術の意味や可能性は、そこにあると考え、作品に関わっています。
入口横右壁面の「Greetings(メリークリスマス)」です。
ごくありふれたクリスマスのグリーティングカードを描いたものです。
この作品と対になるのが道路側ウィンドウの「Greetings(ハッピーバースデー)」です。
こちらは紙に水彩を使用しています。
ありふれていて目に留まらないグリーティングカードですが、ここにも「何か」があります。
最後は、芳名帳スペースに展示されたポラロイド写真作品です。
芳名帳スペースの左側の壁に展示された作品で、サイズは107×88cmです。
小さくて分り難いかと思いますが、「生花」の右の作品が写っています。
(右側の壁面には、「生花」の左が写った同サイズのポラロイド写真が展示されています。)
高柳さんの作品は、一般に難解といわれています。
確かに、「観賞」という立場から入ると難解かもしれません。
でもその立場から一歩外れて観たらどうでしょう。
立場を自由にして作品と対面すれば、そこに「何か」が立ち現れてくるはずです。
高柳さんの言葉を借りれば、「何か」は「世界そのもの」です。
「世界そのもの」とは、自立した状態の有り様で、しかも全ての関係が連鎖している状態のことです。
その状態を表現したものこそが作品であり、美術ではないかと高柳さんは考えています。
もし、わたしが、貴方が、高柳さんの作品に「世界そのもの」を感じたのなら、それはとても幸せなことです。
(もちろん、高柳さんにとっても幸せなことです。)
なぜなら、「世界そのもの」は日常に偏在しているのに、それをカタチとして捉える=見る(感じる)ことはとても難しからです。
ご高覧よろしくおねがいいたします。