「探偵物語(74)」の続き
今わたしは、自宅のあるダイナマイトシティの郊外を歩いています。
散歩ではありません、仕事です。
都内で先輩と夜遅くまで話し込んだのは、昨夜です。
午前中には自宅に戻り、仕事に就いています。
アメリカの金融不安は時間差を伴って、この日本の地方にも波及してきました。
調査依頼がめっきり減ったのです。
ハワイまで調査に出掛けたのがウソのように、事務所の電話は沈黙したままです。
座して待っていても、依頼は来ません。
仕方なく、新聞に事務所の広告を出稿しました。
ただし、人間ではなくネコの探索の方です。
この時代、その方が確実と踏んだからです。
予想は的中して、直ぐに電話が掛ってきました。
ネコ五匹を出産した親ネコが、どういうわけか家出してしまったのです。
乳離れが済むか済まないかの頃で、子ネコは不安で落ち着かないとのこと。
そんなわけで、ネコの足跡を追って、今郊外を歩いています。
この辺りまで、(飼い主の話では)家出したネコのテリトリーだったようです。
家からは少し離れていますが、ここで度々ネコを見かけた事があるとのこと。
探索はここを基点にして、隈無く歩くことになります。
しかし、わたしのカンでは、ネコは事故に遭った可能性が高そうです。
交通事故のようなアクシデント、あるいは他のネコや動物との争いのようなものに。
あくまでもカンなので、まだ飼い主には話していません。
昨夜の話ではないのですが、先入観や思い込みを排除して調査するのは、対象が人間でもネコでも同じです。
歩きながら、わたしは昨夜の話の続きを考えています。
(もちろん、五感はネコの行方に集中していますが。)
ここ数年、家族や肉親同士の殺人、傷害が多いような気がします。
いわゆる尊属殺人などが、ニュースなどを見ていると、増加しているように思えるからです。
ところが、知人の識者(学者)に訊ねると、決して増えていないとのことです。
考えてみれば、昔から小説などには、親族間の殺人を扱ったものが多く見られます。
実際の事件でも、有名なものが幾つか頭に浮かびます。
閉鎖的な社会や家族関係がこじれると、骨肉の争いになって、歯止めが効かなくなるのは確かです。
通常の対立関係よりも、近親憎悪の方が深刻な状態を生みやすいのです。
恐らく識者の根拠は統計で、それによれば、親族間の殺傷事件数は昔と変わらないということだと思います。
そうであれば、昔は血の濃さが惨劇の土壌であり、今は血の薄さが悲劇の舞台かもしれません。
血の薄さは、関係の希薄さと言い換えてもかまいません。
それは仕事で調査をしていても、痛感します。
親戚や身内では当然知っていると思われる事柄が、今はまったく通じていません。
よほどの冠婚葬祭でもなければ、親族も会わないのですから、当然といえば当然です。
家族間も同じで、昔の家族観から見れば、他人同士が住んでいるような錯覚に陥ります。
その薄さが、今までにない事件を生んでいるのは事実です。
事件の特異性と、一時に集中するワイドショーなどの大量報道が、わたしたちに事件数の増加を思わせるのでしょうか。
それとも、何か意図があって、そのように思わせているのでしょうか。
ある本に書いてあったことですが、少年犯罪なども、昔に比べて増えていないそうです。
団塊の世代の少年時代の方が、今より少年犯罪が多かったという話も、聞いたことがあります。
わたしたちの認識が間違っているのか、それとも、何かに巧妙に誘導された結果なのか。
どうも、よく分りません。
もし社会の危機意識を煽る意図があるとすれば、それは管理の問題が考えられます。
権力が社会全体の管理をより安易に、より広範囲に、より効率的に行う為の口実です。
ウィルスの蔓延がセキュリティの強化に繋がるのと、同じ理屈です。
時代と共に、社会が変容しているのは事実です。
その変容は、犯罪の質の変化としても表れます。
犯罪は社会の鏡ですから、その禍々しさから目を逸らすことはできません。
しかし、過度にそれに目を奪われると、容易に管理の強化を許すことになります。
管理といえば、個人情報保護法の施行以来、探偵の仕事は相当にやり難くなりました。
以前であれば簡単に取得できた情報が、不可能か、煩雑な手続きを要するようになったのです。
個人意識にも変化があって、聞き取り調査に行っても、個人情報に関することはガードが固くなりました。
その反面、商店街や住宅街の防犯カメラは増える一方で、プライバシーは無視されています。
交通NシステムやETCの設置カメラも、使い方次第でプライバシーは丸裸にされます。
個人も、商業Webサイトでは、利便性と交換に個人情報を盛大に提供しています。
どこか根本で、行き違いが生じているとしか思えません。
家族や親族の希薄化は、管理する側には好都合かもしれません。
個にバラけた方が、管理しやすく、何かと与(くみ)しやすいからです。
現代の社会では、所詮家族は消費のユニット(単位)に過ぎません。
景気浮揚を目的とした、定額給付金とかエコポイントが、概ね家族を対象にしているのがその証左です。
家族に、それ以上の意味を見つけ難くなっています。
野原のような場所にポツン、ポツンと建つ、新しい家々。
家の周りを丹念に見ても、家出ネコの足跡はありません。
ちょっと古めの、いかにもネコが隠れていそうな家を覗いても、空振りです。
どうも、わたしのカンに間違いはないようです。
歩いた範囲では、家出したネコの気配はまったく感じられません。
後二日ほど歩いて収穫がなければ、飼い主に事故の可能性を告げなければなりません。
気の重いことですが、それも仕事です。