「美」と「術」展は今回で九回目の開催になります。
多くの作家の方にご参加いただいた本展は、2003年展をもって一応の区切りとさせていただきます。
参加作家の方々にはこの場を借りて御礼申し上げます。
来年より新たな企画で皆様のご観覧を仰ぎたいと存じます。
最後の「美」と「術」展は二名の作家のご参加をいただきました。
上野慶一さんと高馬浩さんです。
上野さんとは古いつきあいで、わたしの西瓜塘時代に展覧会をしていただいたことがあります。
1980年代の中頃と記憶しています。
その誠実な人柄と表現に対する真摯な態度は、あの時から少しも変わっていません。
発表する場所も知名度やトレンドにとらわれず、周縁の画廊やカフェでの展示が数多くあります。
作品を作ることの意味と、戦略の無意味さを良く知っている作家です。
上野さんは平面から出発した作家です。
その後立体作品も制作するようになり、平面と立体を共存させるような形で展覧会を続けてきました。
(ファイルや本の形で平面を立体に共存させることもあります。)
ですから、上野さんの呼称は立体作家、平面作家ではなく美術作家です。
高馬さんとは藍画廊での展覧会からのおつきあいです。
ご存じかと思いますが、妻である高柳理恵さんと理想的な作家夫婦の道を歩んでいます。
(お二人と話をしているととても面白いし、楽しいですよ。)
高馬さんの近年の展覧会も平面と立体を共存させたものです。
上野さんが展覧会によっては平面か立体のみ展示に対して、常に両者を共存させる形の展示をしています。
インスタレーションとも違った、独特の空間を形成する展示です。
二人に共通するのは、平面と立体を区別しつつ、自身の表現で共存させていることです。
平面と立体の構造の差異を自覚したうえで、各々の作品を制作しています。
平面の延長としての立体であったり、立体の延長としての平面ではありません。
(このテキストをかいている時点では実際の展示がどうなるか分りませんが、その辺りも含んでご鑑賞いただければ幸いです。)
さて、最後の「美」と「術」展ということで、少し寄り道をしながらテキストを進めていく我儘をお許し下さい。
「美」と「術」展の小さな秘密というか、意外な発見というか、そんなところから話をスタートしたいと思います。
今回使用している画像、ご想像の通りクリスマス関連です。
銀座のとある宝飾店のショーウィンドウを撮影したものです。
(以前からわたしはこの店のショーウィンドウがお気に入りで撮影していました。その後、偶然にも高馬さん夫妻が仕事でこのショーウィンドウを手がけていると知りました。)
ガラス越しですから、画像によっては街の夜景も映り込んでいます。
考えてみれば、わたしはいつも「美」と「術」展の最中にクリスマスを迎えるのでした。
この企画は基本的に年末の最後の二週に渡って開催されますから、当然といえば当然です。
わたしはクリスマスが好きです。
子供の時は大好きでした。
(クリスマスから正月にかけてが、わたしのゴールデンウィークでした。)
あの華やかな雰囲気が好きで、子供時代は大きなデコレーションケーキを丸ごと一人で食べるのが夢でした。
わたしはキリスト教の信者ではありません。
ですから、特別キリストの生誕を祝うつもりはありません。
こう書くと日本人の宗教に対するいい加減さを非難されますが、それは早計というものです。
日本人の宗教観、信仰とはそういうものであり、八百万(やおよろず)的な宗教態度なのです。
なんら恥じることはありません。
わたしは数週間前に臨時で美術専門学校の講義をすることになり、あわてて俄(にわか)勉強を始めました。
まあ、手遅れなのですが、これは気休めみたいなものです。
原始宗教や美術に関する何冊かの本を読んだり、WWWで資料調べをしていたら、クリスマスに関する意外な事実を知りました。
12月25日はキリストの誕生日ではない、という事実です。
これは知っている方は知っていると思います。
不勉強なわたしが知らなかっただけかもしれません。
話は紀元四世紀半ばに遡りますが、当時のローマ帝国とキリスト教教会の思惑で12月25日がキリストの誕生日になったそうです。
キリストの生れがいつだったかは聖書のどこにも書かれていないそうです。
つまり、いつ生れたのかは定かではなかったということです。
それが12月25日になった。
そこには大きな意味がありました。
12月25日は冬至で、古くから冬至祭り(収穫祭)が行われていました。
古代から続く宗教の祭祀です。
つまり、(言い方が悪いのですが)キリスト教が冬至祭りを乗っ取ったわけです。
言葉を変えれば、古くからの文化と妥協しながらそれを内側から侵食したわけです。
サンタクロースにしてもしかりで、ゲルマン神話や北欧神話からの引用です。
日本でも、冬至には南瓜やコンニャク、小豆を食べたり、柚子湯に入って無病息災を祈りますね。
これも古代から伝わる冬至の宗教的しきたりです。
冬至は一年で一番昼の時間が短い日です。
この日を境に夏至にむかって昼が次第に長くなっていきます。
太陽の陽射しが増す日、未来への希望を繋ぐ日とされてきました。
中沢新一「熊から王へ(カイエ・ソバージュ2)」に、冬至に関する面白いことが書かれています。
孫引きになりますが、民俗学者折口信夫の説です。
「ふゆ」ということばは「ものがふえる」という意味をあらわしています。
何が増えるかというと、タマ=霊魂がふえるそうです。
『タマは中が中空になった「うつぼ」状の容器に閉じこめることができるので、それを音楽といっしょに、振ったりすることによって、タマの活動を励起させると、タマはどんどん分裂をおこして、数と力を増してくるようになります。
すると世界には若々しい力がみなぎり、大地を活気づけ、人間を幸福にする力があたりに満ちてくるようになります。
寒い冬期はタマを「ふやす(ふゆ)」祭りが行われる時期でした。
だから、この季節を「冬」と言うようになったのだ。』。
折口信夫は信州、三河、遠州で行われている冬の祭りである「花祭」を歩き回って、古代から伝わるタマ観念をつかみとったそうです。
生産的な春、夏、秋にそなえるために、冬とは衰えたタマを「ふやす=ふゆ」であったということですね。
そのピークが冬至で、その日を人々は祭りにしたのですね。
春、夏、秋が農耕、漁労、狩猟、採集などの「世俗的」な活動の時期とすれば、冬は「聖なる」時期といえます。
衰退したタマを浄化し、再生させる時期です。
美術の原初は聖なる空間で精霊や神と交感、交流することでした。
大きな自然のサイクルから外れないように、超自然的存在と交わって人間の存在を認識させる儀式でした。
この儀式は人間の生存に不可欠のもので、文化とはそういった宇宙像の総体のことでした。
現在の教養としての文化とは、似て非なるものです。
(上記の論考については<美術の研究>をご参照下さい。)
もし美術がかつてのような文化を取り戻そうとするなら、「ふゆ」こそ、その時期です。
一年の中の「ふゆ」であり、人類の長い歴史の中の「ふゆ」である今です。
タマが衰えきった今こそ、美術がタマの浄化と再生を行なう時期ではないでしょうか。
タマ=霊魂を振動、分裂させ、数と力を増加させる。
世界を若々しい力で漲らせ、大地を活気づける。
そして、人間が人間らしく生きられるようにするのです。
ちょっとテンションが上がりすぎましたが、誤解を恐れずにいえば、美術の「術」とはそういった力を引き出す魔術のことだと思います。
決して、テクニークではありません。
技術ではなく、魔術です。
そのくらいミステリアスなものであり、美術とは果てしないパワーを秘めたものなのです。
なんといっても、異界と交流できる「術」なのですから。
美術の「術」が出たところで、「美」とは何でしょうか。
それは、大きな自然のサイクル、システムのことです。
人知を遥かに凌駕した構造のことです。
宇宙観、ですね。
もし人間が「美」と自己を同一できるとしたら、それは何によってでしょうか。
科学でしょうか。
否。
神の真理。
ノン。
詩(ポエジー)。
是。
美術家(=詩人)とは直感で世界を捉える術に長けた人のことです。
そして、世界とは、宇宙とは直感でしか認識できないものなのです。
西欧近代の祖であるプラトンは科学者に世界を委ね、詩人(美術家)を追放しました。
その時から、人類の歴史は「ふゆ」に向かって歩むことになりました。
プラトン以来の不遇な美術家にとって、「ふゆ」はある意味自身の季節(とき)です。
春、夏、秋が眩い昼だすれば、「ふゆ」は夜の闇です。
春、夏、秋が現実とすれば、「ふゆ」は向こう側にある現実です。
「ふゆ」こそ美術家がタマを浄化、再生させるときなのです。
如何ですか?
わたしがわざわざこの冬至の期間に、「美」と「術」展を開催する秘密がお分りになったでしょうか。
芸術の秋などいう教養主義とは一線を画した、適切な時期の選択だと思いませんか。
(それがたとえ、最近考えついたこじつけであったとしても・・・・。)
上野慶一さんは、形態の連鎖、増殖とでも形容できる作品を作り続けています。
現在進行形のプロジェクトに「パラレルワールド・種蒔く人」があります。
2008年のクランクアップを目指し、1000枚のドローイングを完成させるという壮大なプロジェクトです。
ミレーの「種蒔く人」、岩波書店のマークでご存知ですね。
わたしの居住している山梨の県立美術館にその一点があり、もう一点はボストン美術館にあります。
「パラレルワールド・種蒔く人」は、この2点の「種蒔く人」の間に無数の「別の種蒔く人」があり得たかもしれないという妄想のもと始められたドローイングのシリーズです。
わたしはその一部を拝見しただけですが、「パラレルワールド・種蒔く人」が完成したとき、それは巨大な循環を為すのではないかと想像しています。
あるいはメビウスの輪のように始めも終りもない、裏も表もない世界が出現するような気がします。
その世界を妄想、つまり直感して、上野さんは長い旅(トリップ)をスタートさせたのではないでしょうか。
高馬浩さんの作品の根底にあるのは、彼が名付けた「原器」という状態です。
「原器」とは、「気」が最も安定した穏やかさと、緊張感が両立した状態をいいます。
すべてが運動していながら調和のとれている状態、です。
私見では、この「原器」は「美」そのものだと思います。
大きな自然のサイクル(循環)、システム、人知を凌駕した構造のことではないでしょうか。
もしくは原子と原子の戯れであり、存在のあるべき構造のことではないでしょうか。
それを直感して、「原器」を作り続けているだと思います。
世界は「ふゆ」です。
衰えた人類のスピリットを「ふやす」季節(とき)です。
美術家の直感を信じて、貴方もこの(冬至の)祭りにご参加下さい。
ご高覧よろしくお願いいたします。
藍画廊 夲展企画担当 ふくだ まさきよ
2003年12月15日(月)-27日(土)
21日(日)23日(祝)休廊
11:30am-7:00pm(最終日6:00pm)
15日(月)5:00PMよりオープニングパーティをおこないます。