UNKNOWNS 2016
東京造形大学近藤昌美セレクト×慶應義塾大学 有志
本展は東京造形大学絵画専攻教授近藤昌美氏の企画で、慶應大学後藤文子氏と共同で藍画廊、ギャラリー現で開催されたものです。
UNKNOWNS 2016(藍画廊)の展示風景です。
各壁面ごとの展示を御覧下さい。
画廊入口から見て、左側の壁面です。
正面の壁面です。
右側の壁面です。
入口横の壁面です。
以上の10点が展示室の展示で、その他小展示室に2点の展示があります。
作品を1点ずつご覧下さい。
左壁面、左端の作品です。
瀬端秀也さんの作品で、タイトル「5」(acrylic on panel)でサイズ130×162cmです。
左壁面、右端の作品です。
瀬端秀也さんの作品で、タイトル「4」(acrylic on panel)でサイズ195×162cmです。
正面壁面の作品です。
菊地遼さんの作品で、タイトル「idea ♯2〈Chauvet〉」(acrylic on panel)でサイズ91×150cmです。
右側壁面、左端と中央の作品です。
左は菊地遼さんの作品で、タイトル「void ♯3」(acrylic on panel)でサイズ50×50cmです。
右は菊地遼さんの作品で、タイトル「void ♯4」(acrylic on panel)でサイズ50×50cmです。
右壁面、右端の作品です。
菊地遼さんの作品で、タイトル「umbilical ♯2」(acrylic on panel)でサイズ89.5×163.5cmです。
入口横壁面の作品です。
瀬端秀也さんの作品で、タイトル「6」、「7」、「8」、「9」(acrylic on panel)でサイズ各65×53cmです。
瀬端秀也さんの作品に対する慶應大学の学生のテキスト(作品解説)です。
「モンスター」、再構築
画面いっぱいを埋める奇妙な形。
うごめくように波打つ黒い線が、鑑賞者の前に見たことのない形を浮かび上がらせている。
それは、キャンバスが狭いとばかりに断ち切れて、全体像を明らかにしない。
黒い空間から浮かび上がる生々しい赤の色使いは、血肉を連想させる。
単色の背景と黒で縁取られたいびつな形象はいったい何なのだろうか。
瀬端秀也の作品は、シンプルでありながら、鑑賞者に強いインパクトを残していく。
この名前の付けられない形を、瀬端は「モンスター」であると言う。
絵画を始める以前、彼は版画で「モスター」をテーマにした作品を制作していた。
版画では具体的なイメージが残っていた「モンスター」だが、絵画ではその具体的な部分が消え失せる。
これが版画と絵画でのもっとも違う点だ。
瀬端の頭の中にあるイメージは、直感に任せて筆を運ぶうちに徐々に消化されていき、新しい「モンスター」の姿となって立ち現れるのである。
「モンスター」という言葉は、怪物や妖怪を意味する。
「人が分からない、恐ろしいと思うものに名前と形を与えたのが、怪物や妖怪である」というのは、文化人類学の定説だ。古今東西の怪物や妖怪は、人の恐怖心を反映した恐ろしい姿をしている。
しかし、同時にそれらは、奇妙な形によって人を魅了する。怪物や妖怪は、時に愛らしく滑稽に映るのである。
瀬端は、自身の作品でこのプロセスを再現していると言える。
瀬端のイメージから生み出された「モンスター」は、絵画という無機物とは思えないほどの強烈な生命感によって鑑賞者を圧倒する。
しかし、その形の丸みや量感は、どこか憎めないキャラクターを持っている。
瀬端は、自身の「モンスター」を「面白い形」と呼ぶ。
そして、自身が生み出した「面白い形」によって、鑑賞者の目を引き、その心に印象を刻むことを望んでいる。
そうした意味で、彼の作品は成功しているだろう。
それだけのエネルギーが、彼の「モンスター」には確かに宿っているのである。
慶應義塾大学文学研究科美学美術史学専攻 修士1年 鈴木梨歩
菊地遼さんの作品に対する慶應大学の学生のテキスト(作品解説)です。
分節された世界で「作る」ということ
― ―菊池遼の作品を通じて――
私たちがいま眼の前に広がる世界に対峙するとき、それはすでに分節された世界である。
コップはコップとして、そのなかの水や、置かれているテーブルとは区別されたものとして、明確な輪郭をもって私たちの前に現れてくる。
菊池が三つのシリーズにおいて探究しているのは、このような、分節とそれによって形作られる存在のあり方の問題である。
「void」は写真をハーフトーン化し、画面に定着したシリーズだ。漠然とした濃淡で埋め尽くされた画面を見ていると、じきに、影のようなものが浮かび上がってくる。
だが、見えた、と思ってその影に眼を凝らしてみると、その姿はかえってぼんやりとして捉えがたくなる。
結局それが「何であるのか」は分からない。
ここで表現されているのは、未分化の状態ではない。
そこには地から浮かびあがる図らしきものがある。
菊池がここで示したのは、そこに貼りつけられるラベルがないのに、分節は存在している、という「輪郭的」なもののあり方なのである。
すると、その「輪郭」を生じせしめた根源的な分節とは何なのか、という疑問が出るだろう。
それに答えるのが「umbilical」シリーズである。
三分割されたパネルが、一点透視図法の集中線によって統合されている。
バラバラで分節化されていると同時に一つでもある、という二重のあり方をしているのである。
ここには、分節化されたものと未分化なものとが二重に表現されている。
そして、その遠近法の消失点におかれるのは、記号的に描かれた水平線上の太陽だ。
これによって菊池は、旧約聖書の冒頭に描かれたような天地創造、あるいは卵細胞分裂という二つの根源的分節を象徴化している。
「idea」シリーズにおいては、分節という行為自体がさらに批判的に主題化された。
画面上に定着されているのは古代の洞窟画だ。
菊池はその上にさらに自分自身で輪郭線を引き、作品とした。洞窟画の線とその上に引かれた菊池の線とを比べてみると、そこにはわずかな差異や選択が存在していることがわかる。
洞窟画の線は、古代の人々が遺した分節行為の痕跡だといえよう。
それならば、菊池の行なった線の引き直しは、彼らの分節の再分節である。
彼は自己言及的に分節行為を意識化することによって、分節体系の読みかえ、ないし書きかえを試みているのだ。
彼の作り出した画面を見ると、ふだん見ている世界がわずかに揺さぶられる不安とともに、既存の分節体系からの自由を感じることができる。
亀山裕亮 慶應義塾大学大学院 文学研究科 美学美術史学専攻 修士課程1年ご高覧よろしくお願い致します。
UNKNOWNS ART×CRITICISM 2011
UNKNOWNS ART×CRITICISM 2014
UNKNOWNS ART×CRITICISM 2015会期
2016年8月22日(月)ー8月27日(土)
11:30amー7:00pm(最終日6:00pm)
会場案内