青木聖吾展
異系の森
AOKI Seigo
青木聖吾展の展示風景です。
画廊入口から見て、左側の壁面です。
左から、タイトル「works 2011-6目の裏の皮膚」でサイズ161(H)×130(W)cm、「works 2011-4 skip」で91×73 です。
キャンバスに油彩を使用しています。
正面の壁面です。
「works 2011-5逃げ水」で161×130です。
キャンバスに油彩を使用しています。
右側の壁面です。
全作品共「shadowシリーズ -無題」で36×26.5です。
マーメイド紙に色鉛筆を使用しています。
入口横の壁面です。
「works 2011-1蜃気楼」で100×80です。
キャンバスに油彩を使用しています。
以上の11点が展示室の展示で、その他小展示室にドローイングが2点、事務室壁面に小品が1点展示されています。
左壁面の「works 2011-6目の裏の皮膚」です。
抽象的な文様、あるいは地図のようにも見えますが、基になっているのは具象的なポートレイトです。
それを逆さにして、自在に描き変えたのがこの作品。
基のポートレイトはあくまでも描くきっかけに過ぎません。
同じく左壁面の「works 2011-4 skip」です。
少女のスキップを描いたように見えます。
正面壁面の「works 2011-5逃げ水」です。
逃げ水とは砂地や舗装道路で、前方に水たまりがあるように見え、近づくとその先に移っていく現象です。
さて青木さんの絵画、部分のクローズアップをご覧下さい。
驚きました。
何と絵画は、○と△と□、それを赤、緑、青(RGB)で表して、構成されています。
他の作品には黒も使われていますが、ともあれ基本的なエレメントだけで絵画は成り立っています。
その方法論について、青木さんのWebサイトにstatementがありますので、引用させていただきます。
私の作品は、限りなく切り詰められた最小限の要素で、描いていく事で否応なく現れる
個としての「表層の質」を自己と他者との関係性の中から模索する事で成り立ちます。
私にとって、その切り詰められた要素を構成する○△□は言い換えれば世界を構成する
エレメントとしての役割を果たし、絵画上で紡ぎ上げる行為自体が世界の縮図を反映する
事になるものなのです。
そこから個人の主観を超えて世界と人間存在の意味を問いていきたいと思います。
右壁面のshadowシリーズです。
ポートレイトを描いた作品ですが、使用している色鉛筆は油彩の作品と同じく、赤、緑、青の三色です。
マーメイド紙の特徴を生かした描画で、色鉛筆を塗り重ねて黒い影/陰を表現しています。
一見モノクロームに見えますが、色合いのとても美しい作品群。
shadowシリーズは写真を基に忠実に描いた作品で、各々作品にはモデルがいます。
しかし左の作品はちょっと遊びの要素が入っていて、動物の耳のようなものが描かれています。
入口横壁面の「works 2011-1蜃気楼」です。
青木さんの作品は、基本的に上下左右が最初に決まっていないそうです。
作品を横にしたり、上下を逆さまにしたりして、試行錯誤しながら描いていきます。
う〜ん、面白い作品ですね。
○と△と□、そして赤、緑、青、(黒)だけで構成された絵画。
極細の線は形状記憶の面相筆を使用しているそうです。
そうでないと、あそこまで細い線は油彩では描けません。
色鉛筆を使ったshadowシリーズも端正で、しかもうっすらと見える色が豊かな表情を見せています。
真正面からのポートレイトが、これほど変化に富んでいるとは・・・・。
青木さんが描いているのは、人間です。
「逃げ水」や「蜃気楼」のように、分裂して消え入りそうな人間もいれば、shadowシリーズのような確固としたポートレイトもある。
それはわたしたちの多面的な人間像の鏡です。
現代人の分裂した人間像の表象です。
人は、考えてみれば、還元すれば○と△と□のような単純な要素の組み合わせかもしれません。
あるいは、赤、緑、青のような。
しかしその組み合わせは無限にあるわけで、世の中に同じ人が二人といません。
同じ要素で構成されていながら、同じものは無い。
ここに人間存在の面白さ、難しさがあるように思えます。
そして同じ要素から構成されているからこそ、繋がるということも可能です。
「逃げ水」や「蜃気楼」の拡散は、逆に、繋がることの重要性を示しているようにも思えます。
いや、繋がることこそ人間存在の最も優れた要素ではないでしょうか。
青木さんの絵画を見ていると、ついそんな思いにとらわれます。
ご高覧よろしくお願い致します。
会期
2011年11月21日(月)ー11月26日(土)
11:30amー7:00pm(最終日6:00pm)