上野茂都展
ーBRONZEによる新作ー
UNENO Shigeto
上野茂都展の展示風景です。
床に並べられた46体のブロンズ像。
画廊入口から見た展示です。
通常は蛍光灯によるフラットな照明が多い藍画廊の展示ですが、今回は少ないスポット(白熱)だけの展示です。
静かに佇むブロンズの像に相応しい灯りといえます。
逆の方向(正面壁面から)見た展示です。
入口横の壁面に展示されているのは、蝋で制作された5体の像です。
入口横壁面と小展示室の展示です。
小展示室にはブロンズ像が1点、木製の着色された彫像が5点、そして鑿供養と題された作品が1点展示されています。
(鑿供養はこのページのトップの小さな画像がそれで、針供養のように、使用済みの鑿を文字通り供養した作品です。)
正面からブロンズ像を見てみました。
斜めにも美しく整列しているのが分かりますね。
中心のない展示ですので、適当にカメラを向けてみました。
BRONZE=ブロンズは青銅のことですが、光輝いているものもあれば、錆びて(酸化して)緑青(あいさび)が生じたものもあります。
中にはほとんど黒に近い色のブロンズ像もあります。
これは斜め後ろから撮ったものです。
人物像、動物像、家や五重塔、円や球もあります。
その他、名付けようのない形の像もありますが、どれもが親しみやすい表情を持っています。
次は個々の作品の画像を掲載いたします。
どれもが手の平に乗るようなサイズで、詳細な寸法と価格はこちらをご覧下さい。
上野茂都さんは彫刻家ですが、三味線片手の音楽家(洋風にいえばシンガーソングライター)でもあります。
そして文章家としても優れた才を有している人です。
ではその片鱗を、今回の展示にあたって記した文章『或る「置きーモノ派」の考察』でお楽しみ下さい。
このテキストはプリントして画廊に置いてありますので、ご自由にお持ち帰り下さい。
又プリントには「置きーモノ派の誕生2011」と「置きーモノ派の隆盛」の2点の画像も掲載されています。
上野さんは元来石彫の人です。
石をガンガン彫っている人です。
石彫の人ですが、木彫もやれば、紙でも布でも石鹸だって彫刻してしまいます。
だから今回のブロンズもさして驚くにあたいしませんが、その扱いの巧みさには唸ってしまいます。
常に材質(マテリアル)との丁寧な対話を欠かさないからだと思います。
考えたら、彫刻だけではなく、上野さんは絵も描く人です。
それも(音楽と同じように)一筋縄ではいかない、ドローイングです。
ではマルチアーティストかといえば、絶対に違います。
アーティストという言葉は上野さんの辞書に無い言葉ですし、むしろ嫌っている言葉です。
つまりは、多芸な芸人なんですね、上野さんは。
上野さん流にいえば、お客様の福を祈願するのが芸人であり、芸なのです。
さて、上野さんのお客様は民衆です。
芸術の鑑賞家ではなくて、民衆。
大衆、庶民のことです。
それは上野さんが公言しているわけではなくて、わたしの勝手な想像です。
民衆相手にコツコツと物に心を込めている。
(これを美術用語でいえば、作品を制作しているになります。)
上野さんの家庭サイズの作品を見ていると、素朴という言葉が浮かびます。
精緻な描写の彫刻や絵画は、その技量で人を驚かせたり、感心させたりします。
だけどやり過ぎると、技量だけが浮いてしまって、何も残りません。
その辺りの案配が難しくて、往々にして芸術関係者は騙されてしまいます。
素朴とは稚拙の親戚で、重なる部分もあります。
しかし素朴には味や風流があって、単なる稚拙とは異なります。
あまり手を加えず、素材や物の持っている性質を活かすのが、素朴の味です。
上野さんの手法は、余分なものを省いていき、最後に残ったものをカタチとして残します。
それと素朴がどこかで交錯して、あの楽しくて、心が安まる物達(作品)が生まれます。
そこに物(モノ)が置いてある。
あたかも遠い昔から置いてあったように、物がある。
ある日、何かの拍子にその物がなくなると、その空間にあった何者かも無くなってしまう。
頭に浮かぶのは、空虚という二文字。
実は、世の中とはそういった何者かで構成されているのかもしれません。
上野さんの「置きーモノ派」宣言の根底には、そのような考え(思想)があるに違いありません。
物とは、モノにあらず、置かれている物こそ、世の中、世間なのだと。
ご高覧よろしくお願いいたします。
2005年藍画廊個展
2006年藍画廊個展
2008年藍画廊個展
上野茂都Webサイト
会期
2011年5月30日(月)ー6月4日(土)
11:30amー7:00pm(最終日6:00pm)
会場案内