大森さんのお話では、写真は、朝起き抜けに同じ位置から撮影したものです。
写真をスキャンして、レーザープリンターでプリントし、製本したのが今回の作品です。
三冊の写真総枚数は211枚で、211夜(就寝)の記録と言うこともできます。
画廊内の作品は、以上の三冊の本のインスタレーションで、その他芳名帳スペースに三点の写真作品が展示されています。
大森さんの今回の展示は、現代美術に馴染みのない人にとっては、訝(いぶか)しげなものです。
逆に、現代美術に親しい人には、説明の要がありません。
定点観測という手法、方法は珍しいものではないからです。
しかし、この作品には方法を超えた面白さがあります。
なぜ、自分の寝たベッドを毎朝撮影するのか。
この疑問をわたしなりに考えてみました。
この記録に、作者は登場しませんが、写真は作者に関するものです。
大森さんの一夜を記録したものです。
見方を変えると、これは自画像と同じことになります。
自身が登場しない(描かれていない)、自画像です。
ところで一体、画家はいつから自画像を描かなくなったのでしょうか。
その昔、鏡に映った自分の姿を描くこと(自画像)はポピュラーな絵画でしたが、今はほとんど見ません。
もちろん、画家が自己に関心を失ったわけではありません。
そうではなくて、社会の複雑化と共に自己も複雑になって、単純な方法では探索できなくなったからです。
鏡に映った自分は、自分には違いないのですが、それは単なる一側面にすぎません。
毎日ブログを書いている自分も自分ですし、携帯で頻繁にメールしているのも、自分です。
画廊の天井から吊るされた本は、閲覧された後、ユラユラと小さく揺れています。
この宙に浮いたような所在なさは、わたしたち自身です。
朝起きると、布団を畳みます。
なぜ畳むかといえば、そこに残っている一夜のプライベートを消すためです。
もし不意に誰かに見られたら、恥ずかしいからです。
無防備で過ごした自分の痕跡が、あからさまに印されているからです。
しかしそれは、人には見られたくないものですが、「確かな」ものです。
「確かな」、わたしの痕跡です。
残された濃厚な気配も、間違いなくわたしのものです。
大森さんが捉まえたい(記録したい)のは、日常の中の「確かな」ものです。
繰り返されることによって消えてしまう、「確かな」ものの捕獲です。
些細で末梢な「確かな」ものの集積は、本という形になって、物語となります。
文字通り、モノが語るわたし自身です。
(ですから、展示された本は、見るのではなく読まなければなりません。)
歴史上、現代ほど自己に関心がある時代はありません。
それにも関わらず(それだからこそ)、現代ほど自画像が描けない時代もありません。
「確かなもの」は、メインストリートから姿を消しましたが、日常の片隅には転がっています。
それを丹念に集め、再構成すれば、朧げながらも像が浮かんできます。
大森さんの試みは、そのようなものではないかとわたしは思いました。