藍 画 廊



小山基義展
《Sea/海》
KOYAMA Motoyoshi


小山基義展《Sea/海》展示風景です。



画廊入口から見て、正面の壁面方向です。
入口の暗幕によってすべての光を遮断された画廊内部。
壁に向かって、一台のCRTモニターが光を放っています。



壁との隙間は僅かで、何が映っているのか分かりません。
モニターの奥にあるのは、小型のコンピューターです。
画廊内にはこの二つ以外、何もありません。
このインスタレーションは、何を表現しているのでしょうか。
画廊に、小山さんが記したテキストがあります。
少し長い文章ですが、全文転載させていただきます。



NEW WROK`S CONCEPT

それは鳴り物入りで登場した。
もう随分以前の事だ。
そしてそれは、少しずつ、形、大きさを変容させながら<小さく&大容量に>我々の世界に巧みに侵入し、もはやそれを欠く事は出来ない・・どころかすっかりと一部のようになっている。
人は五感からの「入力」によって自分の<感覚面∈心>に到達しうる情報を依拠として、眼前に迫る「事実●現実」を認識し、そのデータを主に言語、絵画、彫刻、音楽その他様々な、(不完全で曖昧なのは百も承知で)手段で「出力」《置き換えている⇔表現している》とりあえずは五感からの入力と<感覚面∈心>でのデータ処理が拠り所ではあるのだが、本当にそれは強固で確かな拠り所なのか?
残念ながらどうもそうではないようだ。
身体能力の差、思い込みや、また言語間のズレ、によって人は簡単に「誤解●誤謬」を犯してしまう。
随分と貧弱な「入力」と処理だ。
顧みるに今その貧弱な「入力」と処理から吐き出される奔流のような「出力」《置き換えている⇔表現している》の直中に我々は(閉塞感を持って)位置している。
そしてその奔流のような出力に多大な力を貸しているのは、例のそれだ。
それは[<-1、0、1>は<Aではない、何れでも無い、Aである>]という三つしかないスイッチで成り立っている。
その三を人では到底出来ないスピードと時間で、幾億回も演算(ON/OFF)して見せているだけだ。
どんなに夢のような世界を造り見せていても、所詮は[<-1、0、1>は<Aではない、 何れでも無い、 Aである>]●これでしかない。
つまりはそれの正体は限りなく「事実⊂現実」に迫ることではなく、限りなく「事実⊂現実」近い偽物をさも本物のように<見る〜感じさせる事>でしかない。
今後どんなに進歩したとしても、この【事態】から逃れる事はできない。
貧弱な入力と処理、そして不完全な手段《置き換えている●表現している》であるがゆえに、「真実⊂現実」を追求しようと人は永年もがいてきた。
デカルトをはじめとする哲学者などはいい例だし『美』なんてあやふやな抽象概念を追い求めている自分も同じだ。
そして人である以上、これから逃れる事はできないし、ある意味においては人の根源的な原動力、営みであるはずだ。
それは人によって造られた物である以上、五感の範疇<主に視覚>●認識下にある≒人のコントロール下にある。はずだ。
とすれば我々が貧弱な入力と不完全な処理しか手段を持ち合わせないのだとすれば、【事態】を忘れ&無視(更には不感に堕ちて)してしまう可能性を孕んでいる。
最近のそれは【事態】を忘れさせるほど巧みで自然/危険だ。
今回私が示す、インスタレーションは我々の現位置(奔流の直中)に於いて見失ってしまった自己の内にある根源的な原動力、営みを呼び起こすための<仕掛け●実行プログラム>である。
これの基本概要をそれからすっかり拝借した事と片棒を担がせた事は、私のそれに対する密やかなそして決定的な抵抗でもある。
画廊の壁面すれすれの位置に向けられたCRTモニターから溢れる光。
光の正体は大海原をひたすら無作為に撮影したムービーだ。
通常であればモニターはこちら向きに設置され、圧縮記録された映像を見る事になるが、前記した状態にすることによって、再度圧縮記号化する。
と言うよりは映像自体(音も)をミニマライズする事に他ならない。
言っておくがミニマライズとは耽美をひたすら追求する事でもなければ、ましてや無限連鎖の状態を弄ぶことでもない。
対象を必要最小限にまで切り詰めることによって、その本性をそのまま以上に見せ浮かび上がらせる、現す事なのである。
この圧縮、記号化を解くのは(コンパイルするのは)とりもなおさず見る、観る側によって行われる。
その映像はその個人の中でしか解く事ができない。そしてそれは
何時か見た海
今見る海
いずれ見る海 と言った時間や位置をも、そしてフレームさえも飛び越して無限の空間時間となってあなたの内に漂うであろう。
大海原という言葉は知っていてもそれを見た人は、未だにいないのである事をあなたは再認識するはずだ。
その 海 こそが 海なのだ。
 
最後に
それとはもちろんコンピューターの事である。
                                                                                                                2006 NOV 小山基義

(改行は原文と異なります。文中の●はWebページに表記不可能の数学記号です。前後関係から文意を汲み取っていただければ幸いです。)



コンピューターの基本概念は、数値化です。
すべての事物を、二進法の1と0に置き換えます。
それを電気信号化し、演算=計算して、モニターに出力します。
コンピューターとは電子計算機のことで、計算して、事物をシミュレートします。

以上のことは、単純なようで解り難い仕組みです。
コンピューターの原理はブラックボックス化して、わたし達の環境になっています。
それをバーチャルと呼ぶのは簡単ですが、事はさほど単純ではありません。

小山さんのインスタレーションを見て、わたしは昨日からの経験を思い浮かべました。
所用で借りたクルマが、最新のハイブリッドカーでした。
このクルマにCPU(コンピューターの計算を担当する基幹部品)が幾つ入っているか知りませんが、完全にコンピューターで制御されています。
動力機構はもちろん、動力と駆動を繋ぐ回路や制動もコンピューターが介入しています。
そして、ドライバーに情報を伝えるインジケーターやカーナビもコンピューターで、エアコンもコンピューターがなければ動きません。

わたしの旅は、わたしの五感と身体で行った旅なのでしょうか。
ステアリングを握る手は、わたしの手ですが、その先は不確かです。
五感、身体とコンピューターのシミュレートの区別がつきません。
どこからどこまでがわたしで、どこからどこまでがシミュレートなのでしょうか。



小山さんのインスタレーションは、何も見せません。
いや、何も見せないのではなくて、すべてを見せています。
後ろ向きのモニターが放つ光。
それを見続けるのは、瞑想に近い体験です。

この光の正体は、なんでしょうか。
騙されたことを知らない純真な機械が、放つ光でしょうか。
(そう、コンピューターは純真な機械なのです。)
それとも、還元不可能になって、行き場を失った光なのでしょうか。

武装解除されたわたしは、為す術(すべ)もなく、壁に反射した光を眺めています。
この光の捉えどころのなさは、本質的です。
カテゴライズや解釈を拒む、光です。

多分わたしは、いくら眺めていても、光に具体的な海を見ることができないでしょう。
そのかわり、シミュレートされていない、何かを見る(感じる)ことができるかもしれません。
それは、わたし次第です。

ご高覧よろしくお願いいたします。

2005年藍画廊個展


会期

2006年12月4日(月)-12月9日(土)

11:30am-7:00pm(最終日6:00pm)


会場案内