太田武志展の展示風景です。
画廊入口から見て、正面と右側の壁面です。 木(カツラ)の作品が、正面壁面に四点、右側壁面に三点展示されています。 |
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入口横右の壁面です。 同じく、三点の展示です。 |
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左側の壁面です。 六点の展示です。 展示作品は以上の十六点です。 作品サイズは、145×55×90cmが九点、160×60×90cmが七点です。 |
展示のクローズアップをご覧いただきます。
木(カツラ)が、鑿(のみ)と彫刻刀で造形されているのが分かりますね。
最前面が波打つようにギザギザになっていますが、これは海岸線をなぞったものです。
作品は横から見るとおおよそ三角錐の形をしています。
一つ一つの作品の大きさはほぼ同じですが、形はそれぞれ違います。
作品は画廊内の空間を囲むように展示されています。
太田さんが記した本展のテキストがありますので、掲載してみたいと思います。
(改行は原文と異ります。)
境界から
〜ここを想う庭として〜
例えば暗闇の中で、自分の位置を確認しようとしたら、私はおそらく手を広げて足を地面に擦るようにしてゆっくり歩き、何かに触れようとするだろう。
そして、何かに触れることができたなら「そこ」から自分の距離、「そこ」と自分の関わりを確認し、「そこ」を基点として自分を捉えられるのではないかと期待する。
「そこ」を仮定することは作品を作ることであり、作品とは「そこ」にあるのだと思う。
私は「そこ」を境界として捉えようとしている。
境界があるとして、それを捉える試みとして作品は作られた。
1つの境界として海岸がある。
その際に立ち向こう側を想う。
想うことは「ここ」ではない何処かを仮定することであり、向こうではないところとしての「ここ」を確認するとでもある。
その海岸を山に起こすことで境界としての性質が強められている。
(山もまた1つの境界である。)
「境界から」では「記憶-器II」で俯瞰していたものを、地に立ち得られる視界に引き戻そうとしている。
造形的関心からそうしたのだが、それにより対象が具体的に「ここ」として現われることになった。
一方で、そこに山が起こされることにより視点はもう一度次の次元へと引き離され、見る者はある空隙に立つことになる。
作品が作る一種の余白の中に。
太田武志
暗闇の中で、人は手探りで辺りを窺い、自分の位置を確認します。
触れたものと手との間には、境界ができます。
自身と外界との境です。
太田さんにとって、作品の海岸線とは、ここ(自身)と外界との境界を意味しているようです。
問題は「ここ」であって、「そこ」ではありません。
「ここ」が(は)何であるか。
それを知る(識る)ために、想像力と手で、作品は制作されています。
その手掛かりとして、「境界」は存在します。
幾分抽象的な文章になりましたが、画廊にお出でいただいて、画廊空間の真ん中に立つことをお薦めします。
周りにグルリと海岸線(山の稜線)があって、こちらを向いています。
不思議な感覚に陥ります。
眺めは、俯瞰しているのでもなく、地平からでもありません。
もしくは、俯瞰と地平を同時に眺めているかのようです。
このポジション(次元)から、「ここ」を模索するのも解の一つかもしれません。
ランダムに選んだ二点の作品です。
左は斜め上から見た、左は下から見た作品です。
木の年輪と丁寧に彫られた跡が分かるでしょうか。
手が思考し、頭がそれに応え、又手が思考する。
その循環の中で、木は境界(作品)として形作られていきます。
ご高覧よろしくお願いいたします。
2002年藍画廊個展
2003年藍画廊個展
2004年藍画廊個展