iの研究



第七十二回 <国家>の研究


去年(2005年)の初頭に始まったライブドアとフジテレビの攻防。
両者の和解から一年が経ちました。
その後には、同じような楽天とTBSがありました。
いずれもインターネット企業が仕掛けた争いです。

ライブドアや楽天は、インターネットとテレビの融合を旗印にしていました。
しかし、実際はテレビのコンテンツの取り込みと認知度のアップが主な目的でした。
わたしは傍観者(野次馬)として見物させていただきましたが、この争いは感情に終始しました。
一般的に議論が噛みあわないと、どうしても感情の諍(いさか)いになってしまいます。
その典型ですね。

テレビからすれば、ライブドアや楽天は「態度がデカい」となります。
会社の規模や社歴、経営責任者の年齢差も原因ですが、それ以上にメディアとしての地位が異なります。
方や国からお墨付きをもらった免許で運営する放送局で、方やどこの馬の骨ともしれないベンチャー上がり。
恒例になった朝のフジテレビ日枝会長の会見を見ていると、顔にそう書いてありました。

たしかにホリエモンは態度がデカい。
ホワイトナイトとして登場したオジさんも、そこを諌めてました。
しかし態度がデカイのは、それなりの理由があります。
単なるバカではないのです。
「何れは俺達が主役」という自信が、態度をデカくさせたのです。
だから一層、フジテレビ会長は頭に来たのでしょうね。

なぜ議論が噛みあわなかったかといえば、ライブドアや楽天はテレビのことを解っていて、テレビはインターネットが良く解らなかったのです。
それは無理もない話で、六十過ぎた会長に解れというのは酷な話です。
日々激務に追われ、理屈では何となく解っていても、実感として理解するのは不可能ではないでしょうか。

つまり、あの争いの根底には、来るべきメディアの主役交代があったのです。
それが何時になるのか、あるいは気が付いたらそうなっているのか分かりませんが、そういう事態を「想定」した争いだったのです。
だから当然、新たなる主役は態度がデカくなるのです。
俺達の時代が、すぐそこまで来ているのですから。

そこで考えてみましょう。
テレビとインターネットは、メディアとしてどう違うのか。
これには色々な見解があります。
わたしは一つに絞って考えることにしました。
「国家」を軸に考察してみることにしました。




人はスポーツを見て感動します。
多くの人は、それを会場ではなくテレビで見て、感動します。
近々では、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)。
王ジャパンの偉業に、感動しました。

わたしも決勝戦はテレビで観戦していて、それなりに感動しました。
それなりだったのは、何か引っ掛かるものがあったからです。
引っ掛かりは、WBCが初めてではなく、あのサッカーのワールドカップの熱狂以降です。
日の丸を振りかざし、顔には日の丸のペイント。
何があそこまで熱狂させるのでしょうか。

帰属意識というものがあります。
同じ共同体に属する者の仲間意識、という意味です。
代表的なものは家族、血縁で、地域や会社、学校にもあります。
普段は国家への帰属意識など感じられない若者が、なぜあれだけ熱狂するのか。
単純に推測すれば、帰属意識を持つ共同体がない(崩壊した)からこそ、手っ取り早い国家の帰属意識に酔ってしまう。
そう考えるしかありません。

クールなイチローが、WBCでは熱くなった。
これも帰属意識ですね。
大リーグのマリナーズでは一体感を持てず、チームの成績もどん底。
イチローはもともと一匹狼的性格で、求道者のようなアスリートでした。
それがWBCで一変、チームリーダーとして優勝に貢献しました。

イチローが目覚めたのは、団体競技としての野球です。
異邦人が同胞チームに再会した途端、それに目覚めたに違いありません。
ただし、イチローの帰属意識は国家ではなく、自分が育った日本のプロ野球です。
韓国を挑発したとされる発言でも、挑発したのは韓国のプロ野球であって、韓国そのものではありません。
彼が、その違いを知らないわけがありませんから。
あくまでも、野球界の話です。

国家意識の高揚では、オリンピックに勝るものはありません。
フィギュアスケートの荒川静香ですね。
それにつけても、テレビの煽(あお)り方は尋常ではありません。
これでもかと、感動を押し付けてくる。
今一番視聴率を稼げるのは感動ですが、その感動が最も大きいのがオリンピック。
そういう図式で、感動曲線が下がってくると、テレビはサッサと次の感動に向かいます。

1964年の東京オリンピックは、日本が新たな近代国家として世界にデビューしたイベントでした。
この時の感動はまだナイーブなもので、テレビの演出も素朴でした。
しかし、あの時点からテレビが国家イメージのリーダーシップをとりました。
それは記憶していた方が良いと思います。

日本が勝ったから、嬉しい。
それは自然なことかもしれません。
日本に住んで、日本で生活している日本人ですから、普通のことかもしれません。
でも、それが自然で普通なのはどうしてでしょうか。
どういうプロセスがあって、自然で普通と思うのでしょうか。



日本は近代国家です。
日本人は、日本という国家の構成員です。

日常生活で、国家はわたし達に各種のサービスを提供します。
公共機関が生活の便宜をはかり、安全で健康で文化的な暮らしを保証しています。
しかし、その見返りというか、それを支える納税がバカになりません。
直接税と間接税を合算すると、収入の少なからずが税金で消えます。

特にわたしのように、クルマの利用度が高く、酒、タバコを欠かさない人の間接税は半端ではありません。
それだけ税金を納めても、国家はとてつもない借金をしているそうです。
その割には、サービスの充実が実感できません。
何か、損をしている気がします。

国家は、国民にとって運命共同体です。
戦争が始まれば、有資格者は参戦させられるし、嫌だといえば、刑務所行きです。
税金だって、滞納すれば差し押さえがあるし、誤魔化せば、同じく塀の向こう側です。
強大な権力を委譲した、運命共同体です。

わたし達は、学校の授業で、江戸時代の農民の暮らしを勉強しました。
年貢に苦しむ農民が、死を覚悟で一揆を起こす。
饑饉の時は、そういうこともあったと思います。
しかし、徳川幕府の基盤は農業ですから、締めつけオンリーだったわけではありません。
肝心なところだけ締めて、後はルーズな管理で済ませていました。
そうでなければ、三百年も続きません。
大半の時期、農民は自給自足の穏やかな生活を送っていたと思います。

江戸時代と比べて、現代の方が自由で暮らしやすいと思われていますが、本当でしょうか。
文明の恩恵(便利で豊かな物質に囲まれた生活)ばかりに目が行くと、真実は見えてきません。
為政者の管理は、江戸時代より現代の方が徹底しています。
戸籍に住民票、免許証、パスポートに保険証、すべて国家がデータベースとして一元管理しています。
国民はガラス張りの中で生活しているのです。
納税(年貢)は現代の方が負担が大きいと思えるし、戦(いくさ)が始まれば、国民総力戦です。

ついでですが、戦争の悲惨さは、近代(日本でいえば明治)以前と以降では比較になりません。
近代以前は、基本的に職業軍人だけが戦争をしていました。
プロ同士の戦争で、民間人は関係なかったのです。
ところが、近代戦は国民総力戦です。
徴兵もあれば、空襲だってある。

科学技術(兵器技術)の進化もあって、以前とは桁の違う死者、負傷者が出ます。
二十世紀の戦争で何人が死んだか。
二度の世界大戦で数千万、その後も二千万人という数値があります。
しかも大半が民間人。
それは、今も続いています。

先ほどもいいましたように、国家は運命共同体です。
家族よりも、地域よりも、会社よりも、強い執行力がある存在です。
そこから脱出するのは、通常は不可能といっても良いでしょう。
好むと好まざるに関わらず、その中で生きなければなりません。

しかしながら、わたし達は国民であることを、あたかも当然のように思っています。
国家という組織自体にも、ほとんど疑いを持っていません。
日本を、日本人であることを、自然で普通のことと考えています。
多くの議論は、それを自明としてスタートしています。

これは、結構ヘンなことではないでしょか。
明治維新は約140年前ですが、それ以前の民衆に、日本、日本人の意識はほとんどなかったと思います。
せいぜいが、甲斐の国や駿河の国などが最大域の帰属で、それ以上の共同体意識はないも同然でした。
上(為政者)が誰であろうと、各々の狭い地域が運命共同体でした。
それが普通であり、遥か遠い昔からさほど変化していませんでした。

つまり、一億もの人間とその住む土地が運命共同体になったのは、つい最近のことなのです。
つい最近なのに、それこそ遥か昔から(運命共同体としての)日本と日本人の意識があったように思っている。
不思議です。



ここで話を、テレビとインターネットに戻します。
テレビは、遠く離れた事物を電波でモニターに映しだす装置(システム)です。
テレビ受像機は誰でも所有できますが、テレビ放送は誰でもできません。
許認可が必要で、公共の電波を使って勝手に放送すると、刑罰に処せられます。
許認可するのは、国家です。

遠く離れた事物を即座に映しだす、これは便利ですね。
誰にとって一番便利かといえば、国家です。
国土や行事を、圧倒的多数に同時に見せられる。
こんな便利なものを悪用されては困るので、独り占めにして、許認可制度を作りました。
その制度(システム)の下に、テレビ放送は行われています。

ただし、独り占めにしたからといって、専ら国家の宣伝をしているわけではありません。
国家や国民のイメージを、日々映しだしているだけです。
とりあえずは、それだけで充分役割を果たすからです。

考えてみれば、狭いといっても日本の国土は結構広いですね。
北は北海道から南は沖縄まで。
行ったこともない土地の方が、はるかに多い。
そこに住む人たちの生活を、日本の地として、日本人として認識させるのは、本当はかなり難しいことです。
テレビなら簡単です。
映して、それにナレーションを被せれば良い。
あるいは、ドラマに仕立てれば良い。
それが、いとも容易く各家庭の居間に流せます。

テレビ放送は中立を建前としていますが、許認可ですから、当然「意向」はあります。
しかし重要なのは、「意向」よりも、ローカルエリアネットワーク(LAN)としてのテレビの存在です。
ローカルエリア(国土)の在住者に一体感、帰属意識を生じさせる装置であることです。

明治時代、政府の政策の最重要項目は教育でした。
近代国家とその国民であることを認識させ、全体像をイメージさせるためです。
江戸時代にそういう概念はありませんでしたから、まず学校で教えなければなりません。

教育の基本線は今でも同じです。
一昔前は、学校は読み書きそろばんを教えれば良い、という意見がありました。
しかし、読み書きは国語の勉強です。
国語とは標準語のことで、国家がアレンジ(編集)した共通語に他なりません。
ですから、読み書きにも国家は大きく関与しています。

話が飛びますが、
以前の研究でガンジーの著書を紹介しました。
その中でガンジーは、読み書きも必要ないと説いていました。
かなり過激な、真理ですね。
人間は自分の手足で出来る範囲内だけ、行き来しなければならないように生みだされているのです。」
つまり、手足の範囲以外は知る必要もないし行く必要もない、そうであれば、知識は日常の生活で得られるはずです。
文字や映像でイメージしなくても、世界(手足の範囲)は五感で認識すれば良いのですから。



近代国家に於いて、教育が義務になっているのは、親切でも何でもなくて、国家の都合です。
何よりも国家の存在を示し、国民としての自覚を促すのが目的です。
わたしの世代が直撃を受けた戦後民主主義教育も、根本は同じです。
だから、学校の授業はあんなにもツマラナイのです。
(楽しかった修学旅行も、日本を空間的、時間的=歴史的に実地で体験させる行事なんですね。)

学校以外にも、国家、国民を認識させるメディアは必要です。
時々に即して、国家を、国民を自覚させる媒体がなければなりません。
明治政府は、新聞を活用しました。
新聞を国民統合のメディアとして利用しました。
ただ、後のテレビほどは影響力はありませんでした。
活字が主ですから、ある程度の教育を必要とし、テレビほどの環境性はありません。
(テレビの強みは、日常の環境として自然に存在することです。)

ところで、最近新聞がキャンペーンを張っています。
「活字文化があぶない!メディアの役割と責任」。
IT(情報技術)の発達が活字文化を危うくしている、という論です。
しかし、インターネット(WWW)の大半は活字ですし、現にわたしもセッセと活字を書いてます。
もしWebがなければ、文章なんか書かなかったかもしれません。

それより、「メディアの役割と責任」で自己の歴史に触れないのは腑に落ちません。
いえいえ、わたしは戦時下の新聞のことをいっているのではありません。
あれは、メディアの役割がストレートに出ただけの話です。
国家のイメージを作ってきた役割と責任についての、自己言及がないことです。

新聞協会の基調講演で柳田邦男さんが、新聞のこれからについて発言しています。
「世界という現実のパノラマを活字で提供する新聞の任務もいよいよ大きい」。
「世界という現実のパノラマ」には、当然国家と国民のイメージが含まれます。
それを流布してきた、新聞の役割と責任についてはどう思っているのでしょうか。

いや、こう書いてくるとますます不思議になってきました。
だって、前述した二十世紀の戦争を先導したのは、新聞のいうところの活字文化で育った人ではないでしょうか。
活字文化時代のエリートが、戦争を起こして、大量殺戮を行ったのです。
毎日新聞を読んで、活字の文化に慣れ親しんだ人が、戦争を先導したのです。
ま、そこまでいってしまうといい過ぎですが、活字と新聞を直結してしまうのは、驕(おご)りとしか思えません。

ラジオを間に挟んで、時代はテレビが主役になりました。
東京オリンピックの頃です。
受像機の普及と国家的大イベントが重なり、一気に主役の座につきました。
国家を認知させる装置として、テレビは新聞の比ではありません。
何たって、マルチメディアですから。
想像力ではなくて、ダイレクトに映像と音声がモニターに表示されます。

北朝鮮がその貧しさにも関わらず、昔からテレビの普及率が高かったのは、権力者がテレビの力を知っていたからです。
国家統合とプロパガンダの装置として、最大限に活用し、今も利用しています。
ただ、露骨すぎるので、日本(先進国)のテレビとは異質なものと思ってしまいます。
でも、本質はなんら変わりません。

テレビの、ニュースでもドラマでもバラエティでも天気予報でも、国民を視聴者として制作、放映されています。
つまり、ある限定が存在します。
ある限定の中で、限定が自然であり、生来のものであるかのように振る舞います。

日本が、日本人という限定が、知らず知らずのうちに普通になっていきます。
天気予報に日本地図が映されるのも、穿(うが)ってみれば、そういうことです。
テレビが「わたし達」といえば、それは日本に住む、日本人のことです。
それが毎日繰り返されると、日本と日本人は、固定化された観念になります。



わたしの拙い説明で、新聞、テレビが国家のイメージ装置として機能していることをお分かりいただけたでしょうか。
とりあえず、話を前に進めます。

テレビとインターネットは、メディアとしてどう違うのか。
最初の設問です。
テレビには限定があって、それは国家と国民でした。
インターネットは?
中国が検索制限等の管理を行っていますが、基本的に国家という限定はありません。
というより、国家をイメージさせる装置としては適していません。

例を出しましょう。
音楽ファイルの交換で有名になったナップスター(ファイル共有ソフト)には国境が存在しません。
ソフトがインストールされていて、公開フォルダにファイルが入っていれば、どこの国の誰とでもファイルが共有(交換)できます。
他のファイル共有ソフト(P2P)も同じで、国境による制限はありません。

アプリケーションや画像のダウンロードも、どこの国のサイトであろうと自由にできます。
わたし達は無意識のうちに、国境を超えて情報(データー)をやり取りしています。
メールの送受信に、国内便もエアメールもありませんね。
かえって、iTunes Music Storeのように、自国以外のサイトから楽曲がダウンロードできないのは、例外中の例外です。

インターネットが日々成長し、日常の時間を侵食し始めると、既成メディアは危機感を持ちます。
限定がないイメージは無秩序と映りますから、危険視します。
それは、当然かもしれません。
国家という秩序を、暗黙の前提にしてきたメディアにすれば、理解できない事態です。
しかも自身の存在基盤にも影響が出ている。

そこで、一つの反論が出ます。
インターネットはグローバリズムである、という論です。
これは一面では正しいのですが、あくまでも一面に過ぎません。
インターネットは拡張を続けるネットワークで、双方向通信が原理ですから、ある程度の互換(標準)がないと成り立ちません。

その互換の主導をアメリカが握っているのは事実ですし、共通語も英語です。
しかし、それは現実の反映であって、インターネットだけが突出してグローバリズムに向かっているわけではありません。
かつてのアメリカテレビドラマやハリウッド映画のような、一方的な情報(ライフスタイル)提供の方が影響力は大きいと思います。

インターネットは双方向で、情報の発信者に許認可も資本もいりません。
良識も悪意も入り混ざって、世界中にクモの巣のようなネットワークを日々増殖しています。
テレビや新聞のように、国家の限定を出発点にはしていません。

その無秩序な情報の氾濫を整理しようとしているのは、国家ではなくGoogleのような企業と非営利団体です。
もちろん、プロバイダーの通信記録開示などで国家も関与していますが、ネットワークをコントロールするのは不可能です。
インターネットのネットワーク原理がそれを難しくしているからです。

インターネットにも多くの問題点はあって、その利便性と同等のリスクは常に存在します。
双方向性ゆえの、危険もあります。
だからといって、新聞やテレビが発信する一方的なイメージが安全とはいえません。
疑うことさえできなくなるのは、危険以外の何ものでもありません。


例によって長くなりましたが、今回の研究を書くに当たって、わたしが感じていた疑問はただ一つです。
近代国家のような大きな運命共同体が必要かどうか、です。
イメージで想像しなければならないような共同体が、果たして必要かどうか。
その一点です。

近代国家を考察する場合、議会制民主主義、市場経済は外せない要素ですが、今回はメディアに絞ってみました。
特にテレビです。
ただそこにあるだけで、国家を国民をイメージさせる装置です。
メディアとしてのインターネットは、双方向で、一対多数ではなく多数対多数です。
イメージの装置としては不適格です。
(個人的な感慨では、インターネットは雑誌に似ていると思います。その猥雑な感じと、幅の広さ、奥の深さが。)

人間は自分の手足で出来る範囲内だけ、行き来しなければならないように生みだされているのです。」
再びガンジーの言葉ですが、この範囲に、人間の運命共同体はあるべきではないでしょうか。
もしそうであるならば、その視点から近代国家を考えることが必要だと思います。

<第七十二回終り>