BACK→CONTENTS


iの研究



第五十三回 <自動車>の研究(2)


(1)で自動車の悪口を書いたものですから、今日指をクルマのドアに挟んでしまいました。
右手の人差指ですが、キーボードが普通に打てるくらいですから大したことはありません。
指を挟んだクルマはヨレヨレの軽トラック。
老体に鞭打って不届き者を懲らしめたのでしょうか。

トラックといえば、わたしが免許をとって最初に乗ったのもダットサンの1トントラックでした。
当時家にはそれしか乗るクルマがありませんでした。
免許をとったのは27才の時で、東京から一時帰郷していた頃です。
子供の頃から自動車が好きだったにも関わらず、遅い年齢でした。

自動車は好きでしたが、メカにはさほど興味がなく、運転もさしてしたいと思いませんでした。
変わった自動車好きでした。
好きなのは、自動車の持つ雰囲気とインターフェース。
デザインとか、自動車を操作する装置の佇まいや感触が好きだったのです。

ところが、運転するのはどういうわけか商用車ばかり。
トラックの後もバンが二台続きました。
面白くも何ともないクルマ達です。
それでもダットサンのトラックで清里や河口湖にドライブに出かけたことを憶えています。

主に仕事絡みで乗っていたクルマなので仕方がなかったのですが、再び東京暮らしに戻ってからはクルマと縁のない生活になりました。
八年ほど前、単身赴任のような状態で山梨に帰ってきてから、クルマとの付き合いが再開されました。
(1)で書きましたように、好むと好まざるとに関わらず、クルマはイナカの生活必需品だからです。

最初に買ったのは中古のゴルフ。
これがハズレで、鈍重なうえに、しばらくすると故障が頻発。
これで懲りて、プジョー306の廉価版を新車で買いました。
今乗っているクルマです。
現在オドメーター(積算計)は10万6千キロを表示しています。
気に入っていますし、買い替える資金もないので20万キロまでは乗りたいと思っています。

以上がわたしのクルマ遍歴で、研究者としては恥ずかしいくらい貧しいものです。
それでも小さな夢だけは持っていて、小振りのハッチバックをMT(マニュアル)でドライブする楽しさに憧れています。
もともと小型車が好きで、フェラーリだのポルシェだのには余り興味がありませんでした。
身の丈を心得ていたいうか、向上心が欠如していたというか、そういう趣味でした。
初めて本気で欲しいと思ったのもイタリアの小型車パンダでしたから。

世の中には向上心の旺盛な人もいて、フェラーリを所有したいばっかりに会社を辞めて、ラーメン店のチェーンを興した人がいます。
先日テレビで見た話ですが、苦労の甲斐あって豪邸も建て、一階のガラス張りのガレージには数台のフェラーリが停まっています。
夜になるとガレージはライトアップされ、往来からもフェラーリが良く見えるようになっています。
ま、見せびらかしているわけですが、その気持ちは分かります。
この手のプレミアムカーは運転するのと同時に人に見せる快楽もあるからです。
洋服と似ていますね。
着る楽しさとは、人に見てもらうことも含んでますから。

自己主張という面では、クルマは洋服よりもバラエティに富んでいるかもしれません。
洋服というのはレディメイド(既製服)がほとんどで、その組み合せに妙があります。
クルマの場合はカスタムという手法があります。
改造したり、パーツを追加したりして、オリジナルなクルマを作ることです。

スパルタン系はエンジンやシャーシーのチューニングに血道を上げ、矢沢永吉系はVIPカーやドレスアップカーに心血を注ぎます。
そこまで本気にならなくても、アクセサリーやエアロパーツでさりげなく個性を主張する。
カスタムという自己主張は、都会よりも地方の方が盛んです。
地方はクルマ社会でクルマは生活必需品であり、クルマへの注目度が高いからです。




中古のゴルフと新車のプジョー、わたしが購入したクルマです。
欧州車です。
欧州のカローラみたいなクルマです。
イナカでこの車種に乗っているのは、どういうわけか若い女性が多い。
一応、オシャレということなのでしょうね。

わたしがこの欧州カローラを買った理由は、予算と用途と好みです。
この好みというのが厄介なもので、それがいつ形成されたのか自分でも良く分かりません。
200種類前後もある日本の乗用車を避けて、なぜ輸入車(外車)を選んだのでしょうか。
長い自動車愛好歴の間に自然に培われたものだと思いますが、若干心当りもあります。

「NAVI」という自動車雑誌があります。
1984年ごろの創刊ですが、この雑誌を創刊号からつい最近まで購読していました。
18年間にわたって読んでいたことになります。
(ここ数ヶ月は買うのをお休みして、カフェ備え付けを流し読みしています。)

この雑誌の影響力は大きいと思います。
子供の頃読んでいた「月刊自家用車」は現在も健在で大部数を誇っていますが、こちらは少部数のマイナー雑誌です。
「NAVI」は、インテリ向けオシャレ系自動車雑誌です。
このように形容すると、何かイヤラシイというかイヤミというか、そんな気がしますね。
ま、実際そういう雑誌には違いないのですが。

わたしは、頭は悪いのですが、インテリです。
身近な大切なことをうっちゃって、地球の裏側の事態を心配したり、遥か昔や遠い未来に頭が飛びやすい性質(たち)です。
頭の悪いインテリは実に始末の悪いものですが、直そうとしても直らないのでそのままにしています。
加えて、意匠に代表される「美しいモノ」に弱い。
こういう雑誌にハマるのは当然の成り行きです。

「月刊自家用車」をWWWで検索して見てみると、特集の一つが、新車をいかに値切るかというセールスマンとの交渉術でした。
実利です。
18年間読んでましたが、「NAVI」で値切る話は一度もありませんでした。
古い欧州車の故障自慢はしょっちゅうですが、いかに値切るかという話は絶対にない。
インテリの雑誌ですね。

インテリとミーハーは流行(はやり)モノに弱いという共通点があります。
先ほどの一応オシャレで欧州カローラに乗っている若い女性、ミーハーではないが流行モノには弱い方々です。
インテリも重厚を装っていますが、実は流行モノには弱い。
同じですね。
理屈を言わないだけ、若い女性の方が良いのかもしれません。

「NAVI」が基準としているのは欧州車で、欧州車の文化が編集の根底にあります。
自動車の発祥は欧州で、発達したのも欧州ですから、自動車の文化の基調は欧州といえます。
わたしが子供の頃影響を受けた戦後のアメリカ車の文化も強力でしたが、時期的には短いものでした。
又、広い意味で言えば、アメリカ車も欧州車の文化圏に入ります。

自動車の歴史は約100年です、
実用となった自動車から数えると約100年です。
自動車は20世紀が育てた道具=移動装置ということになりますね。

道具は必要から生れます。
生れた道具は徐々に洗練されていきます。
不必要なものが省かれ、必要なものはより使いやすくする工夫が加えられます。
道具はその土地の生活を色濃く反映しながら、完成された一つの形となります。

欧州の土壌で生れ、欧州(とアメリカ)で育った自動車は、当然その土地の生活や考え方が反映されています。
それが、いってみれば自動車の文化です。
「NAVI」の基本はそこであり、そこから見て、「日本車、ガンバレ!」なのです。
日本の雑誌ですから、日本のクルマを応援するのは至極真っ当なことです。

しかしガンバレと言っても、日本車は80年代に世界を席巻していますので、当事者にとっては「?」になります。
つまり、値切るという経済の話ではなくて、文化の話なんですね。
「志をもってクルマを作れ!」という文化の話です。
ま、「NAVI」とはそういう雑誌です。



そういう雑誌を長年読んで、いざクルマを購入する段になると、200種類もある日本車には魅力的なものが見当たらないことになります。
コストパフォーマンスではなくて、文化を基準に選びますから。
実際にはその文化だって、長期比較試乗したわけではなくて雑誌の知識が源泉です。
素人がディーラーで20分やそこいら試乗したってほとんど分かりません。
「〜のような気がする」で終わり。

「〜のような気がする」でわたしはプジョーを買ったわけですが、まァ満足しています。
所詮は道具ですから、自己満足でも満足できれば良いわけです。
満足したものに長く乗れば、結局はコストパフォーマンスも高くなりますから。

自動車は100年の歴史の中で幾度か社会的問題を引き起こしています。
交通事故、石油ショック、排気ガス、交通渋滞、大気汚染。
これらは別に解決したわけではく、何となくやり過ごしてきましたが、地球全体の環境破壊で大きな転換期を迎えています。
地球の温暖化ですね。

100年の歴史を持つ自動車ですが、道具としての基本はかなり前に完成されています。
後は改良につぐ改良で今日まで来たわけです。
その自動車の心臓部である内燃機関(レシプロエンジン)が、電気(モーター)に変わろうとしています。
すでに両者を搭載したハイブリッドカーは市販されてしますし、近い将来は燃料電池を用いた電気自動車に転換される予定です。
(ただし、燃料電池を製造するのにもエネルギーを消費しますので、総トータルの大気汚染度が低いことが転換の基準になります。)

自動車の電化と同時に通信化も進行しています。
トヨタでも近々にG-BOOK(ネットワークサービス)の提供を開始します。
これは単なる付加サービスではなくて、今後の自動車の性格を決定づける要素です。
電化され、ネットワークで結ばれた自動車は20世紀の自動車とは違うものになりそうです。
そこに決定的な段差ができて、いわば21世紀の自動車が生れることになります。
人や物の移動以上に、情報の移動にウェートがかかった道具になりそうです。

21世紀の自動車については、パーソナルコンピュータとの関連もあって、ここで言及すると複雑なことになってしまいます。
回を改めて考察したいと思いますが、20世紀の自動車の命運があと僅かであることは、心しておいた方が良いでしょう。
わたし達が自動車と呼んでいたモノは、数十年先には存在しないのです。
たとえカタチが似ていたとしても、その中身は別なモノなのです。

「好きなときに、好きなところに、行ける」、研究の(1)で書いた自動車の特徴です。
この移動の自由は、考えてみれば大きな問題を含んでいると思います。
江戸時代、移動は自由ではありませんでした。
関所がありましたね。
夜になれば、町と町の間の通行もままなりませんでした。

今では当たり前になっている移動の自由は、歴史的尺度で見ればごく最近のことです。
日本でいえば、明治以降ですね。
「近代」以降の自由なのです。

自動車の故郷であるヨーロッパにしても事情は同じです。
その土地の生活や考え方から道具は生れ、育っていきます。
個人の自由という「近代」の生活や考え方から、自動車は生れました。
自動車は生れたとき、移動の自由を内包していたのです。

「近代」の始まりに遡っていくと産業革命に突き当たります。
産業革命はイギリスで起こった機械による大量生産方式です。
大量に植民地化から輸入された原料を陸路で運ぶのは鉄道です。
生産された大量の商品を運ぶのも鉄道。
あるいは植民地の中の産地から港まで運ぶのも鉄道です。
蒸気機関は工場の機械の動力源であると同時に、物流の動力源でもありました。

物流は工場大量生産のインフラともいえますね。
工場を建てただけではダメで、鉄道を敷いて、物や商品の流れをスムーズしなければなりません。
今でいえば、そもそも道路がなければ工場さえ建てられません。
機械だって道路がなければ搬入できませんね。
まず、道路と自動車です。

「近代」のバックボーンである市場経済にとって、「好きなときに、好きなところに、行ける」という移動の自由は必須です。
原料を仕入れ、加工製造し、商品を売りさばく。
国境を越えて、「好きなときに、好きなところに、行け」なければなりません。

「好きなときに、好きなところに、行ける」は、陸路だけの問題ではなくて、海上でもそれを巡って争いが起きたのは御存知かと思います。
寄港地の争奪戦や運河の支配権を巡る争いです。
植民地帝国主義の、「好きなときに、好きなところに、行ける」自由の獲得争いです。
事情は今でもまったく変わっていません。
テロ国家撲滅の「裏側」には、こういった事情があると思います。



現在、日本国内の物流は自動車が鉄道を遥かに凌いでいます。
自動車が半分以上、鉄道はたったの5パーセント以下です。
わたしは毎週高速道路を使って山梨、東京間を移動していますから、トラックの多さは実感としてわかります。
もし貴方が東名高速を夜中に走ったとしたら、トラックの群れに囲まれて怖い思いをするでしょう。
道路上で乗用車の姿を見ることは稀で、グリーンのライトを照らしたトラックの大群だけが目に入ります。

コンビニの目まぐるしく変わる商品を支えているのも、注文すると翌日配送になる通販を支えているのも自動車です。
自動車というと乗用車に目がいきがちですが、現代の物流の根本には自動車による貨物輸送があります。

「好きなときに、好きなところに、行けない」国は、前近代的国家と呼ばれます。
個人の自由が確立されていない国、ということです。
「近代」は個人の自由を旗印にしていますから、当然といえば当然です。
しかしその意味を、国家を動かしているモノ(市場経済)から見てみる必要もあるのではないでしょうか。

20世紀という「近代」は、スピードの時代でもありました。
人々が、企業が、取り憑かれたようにスピードを求めた時代です。
自動車のレースが大きなイベントになり、企業も生産サイクルの短縮化に奔走しました。
効率化、能率化、合理化というスピードが中身の商品も数多く開発されました。
(今これを読んでいる貴方、ダイアルアップをADSLにしたいとか、ADSLを12Mにしたいとか、光ファイバーにしたいとか考えていません?その商品の中身はスピードですね!)

個人の移動の自由と、市場経済の移動の自由は、いわば「近代」にとってコインの裏表です。
20世紀において、それの土台になったのは自動車です。
個人が移動する場合、別に自動車でなくても電車でもバスでも飛行機でも自由に移動できます。
しかし、その自由の意味を一番体現しているのは、やはり自動車ではないでしょうか。

さて、わたしは<世界の研究>(2)M.K.ガーンディーの「真の独立への道」を研究しました。
この本は西欧近代の本質を鋭く突いています。
研究したとき、「真の独立への道」から以下を引用しました。

人間は自分の手足で出来る範囲内だけ、行き来しなければならないように生みだされているのです。
人間の限界を、神は身体を造って設けたのでした。

「好きなときに、好きなところに、行ける」に対する強烈なアンチテーゼですね。
ガーンディーがこのとき問題にしたのは自動車ではなくて鉄道ですが、意味は同じです。

限界を超えて、「好きなときに、好きなところに、行ける」自由を獲得したわたし達。
身体のスピードを超えて、世界中を駆け巡るわたし達。

(1)で書いた地方の実情をガーンディが見たら何というでしょうか。
自動車が好きなわたしにとって、ガーンディの言葉はとても苦く、しかも説得力のある言葉です。
夕暮れに自転車に乗って見た、イナカの渋滞する道路のクルマの群れ。
あのときの不可思議な内面の分裂。
クルマの内側と外側の間にある見えない境界。
ひょっとしたら、それがガーンディーのいう限界なのでしょうか。

日本のモータリゼーションの歴史は、日本の戦後「近代」の歴史と重なります。
日本人が憧れた自動車は、日本人が憧れた「近代」に重なります。
日本人は器用で応用技術が得意です。
しかしそれだけでは日本の自動車産業の発達を説明できません。
そこには、日本人の憧れがあったような気がします。


自動車のことを書き出すと切りがありません。
例えば、映画の中の自動車。
「ビッグ・リボウスキー」の主人公が乗るオンボロ自動車。
くたびれ果てたフルサイズの黄色いアメリカ車。
いつも鳴っているのはカーステレオのCCR(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)のテープ。
フィリップ・マーローをリメイクした、中年ヒッピーの楽しくて哀しい物語です。


<第五十三回終わり>





BACK→CONTENTS