BACK→CONTENTS




わたしは毎週藍画廊で展示作品を撮影しています。
撮影した画像にテキストを付けて、Webサイトにアップロードします。
Webサイト名はiGallery
わたし個人のWebサイト(ホームページ)です。
その中に「藍画廊」というコンテンツがあります。

「藍画廊」が独立したサイトでないのは、わたし個人のサイトが先行した為です。
とりあえずiGalleryで「藍画廊」の案内、紹介を始めました。
普通ですと、まず画廊のWebサイトがあって、その中のコンテンツにギャラリストの日誌やコラム、エッセイがあります。
逆ですね。

変則的なスタイルですが、ま、これはこれで良いのではないかと思っています。
Webページの「藍画廊」の基本的スタンスは、客観的な情報プラス個人の視点。
個人の視点は批評ではなくて、一鑑賞者の感想です。
感じて、思ったこと、です。

もともとが個人のサイトですから、当然個人の視点というものが入ってきます。
そこだけ妙に客観的になると、サイト全体から浮いた感じになってしまいますから。
しかし、個人の視点が入った紹介には弊害もあります。
実際に会場で観る前に、先入観を与えてしまうことです。
この辺りは難しいところで、ある意味で書き手のバランス感覚が必要とされます。
気をつけてはいるのですが、それが上手くいっているかどうかの自信はありません。

ともあれ、撮影した画像はコンピュータに取り込んで、画像の選択と補正をし、おおよそのページレイアウトを決めます。
そこからテキストを付けます。
展覧会のデータ、つまり展示状態やマテリアル、使用画材、及びタイトルやサイズをレイアウトに従って書いていきます。
一鑑賞者の感想を書くためには、作品を理解することが先決です。
ここだけの話ですが、これが意外と難しい。
(↑ここを何処だと思っているのでしょうか?)

正直にいえば、画廊に入ってすぐに理解出来る作品の方が少ない。
搬入に立ち会っていれば事情は多少違います。
展示の過程で作家とコミュニケーションがあるからです。
わたしの場合は展覧会が始まってからの観賞です。
(普段は山梨に在住し、仕事の休日に画廊に行きます。)
通常の鑑賞者と立場は同じで、そこで初めて作家の方と会うケースも結構あります。

手がかりは、作家との会話、及び画廊に置かれている作品ファイルを見ることです。
この作業は、「観賞の手引き」といった意味でも役に立ちます。
制作意図や制作過程をデータとして載せられるからです。

恥ずかしい話ですが、それでも分からない場合があります。
分からないけど、書かなければならない。
個人のサイトとはいえ、藍画廊のWebページを担当している以上、それは仕事です。

不思議な話ですが、コンピュータのディスプレイに映された画像を見ていると、自分と分からなかった作品との距離が縮まってきます。
画廊でも、一対一で観ている作品がです。
これは多分、わたしが書くという能動的な作業をしているからです。
わたしと作品との対話に、わたしとわたし自身の対話が加わるからです。
そこから糸口が見えて、正解かどうかは別として、「感じて、思ったこと」が出てきます。
それを毎週書いています。



本年の「美」と「術」展は、三名の作家のご参加をお願いいたしました。
黒須信雄、塩入由美、当間裕子の三作家です。
いずれも絵画の作家です。

前年の「美」と「術」展も絵画の作家の展覧会でした。
企画者であるわたしが絵画にこだわっていることの証左かもしれません。
絵画が好きでありながら、実は絵画が一番分かり難いと思っているからかもしれません。

藍画廊の展覧会で最も多い表現形式は絵画(平面)です。
画廊の性格といって良いかもしれません。
ですから、わたしは画廊で多くの絵画を眼にしています。
そこで感じたことを今回は書いてみたいと思います。

視覚、つまり「見ること」は存外に複雑な現象かもしれません。
このことは2000年の「美」と「術」展のテキストでも書きましたが、もう少しお付き合い下さい。
例として、参加作家の塩入さんの作品を取り上げさせていただきます。
(これをWWWでご覧になっている方は塩入さんの作品のページにジャンプできますが、画廊でプリントアウトしたものをお読みになっている方は、申し訳ありませんが、以下の文章で想像して下さい。)

描かれているのは浴室の風景。
ありふれた浴室の風景です。
シャワーとシャワーをかけるフック、石鹸と石鹸入れ、タオルとハンガー等々です。
無愛想ともいえる風景ですが、風景の切り取り方と、色合い、タッチが優しい絵画です。

作品を一点だけ観た場合、塩入さんの意図は見えにくいと思います。
(これはわたしの経験で、感の良い方には見えるかもしれません。)
展示された全作品を観ていると、そこにモノとモノの関係性が現われてきます。
その関係性は、見ている間に、モノから人間に換わり、人間から世界まで拡がってきます。
見えなかったものが、見えてきます。

話を美術以外に変えてみると、視覚の置かれた立場は大きく変化してきました。
見えなかったものを、過剰に見せるようになってきたのです。
テレビのテロップ。
バラエティがゴールデンタイムの主役になってからだと思うのですが、会話がテロップで映し出されます。
それも、大きな文字で頻繁に。

余計なお世話と思うのですが、ながら視聴がテレビのメインストリームになった今、苦肉の策かもしれません。
マジメに視聴していない視聴者に便宜を図るというか、阿(おもね)るというか。
ちゃんと話を聴いていないので、視覚化してダメを押す作戦ですね。
テロップをマンガの吹出しと考えれば、マンガというメディアの影響力かもしれません。
(好意的に見れば、テレビの新しい表現ともいえますが、それはねぇ・・・・。)



映画ではCGの活用です。
想像力の世界を、現実と見紛うほどに視覚化してくれます。
マンガ的アクションをリアルに見せるのは朝飯前で、恐竜の描写や惑星での探検も、実に自然です。
イメージできることはすべて映像化が可能、と思ってしまうほどです。
いや今は、イメージできなかったことの映像化の方に焦点が移っているのかもしれません。

湾岸戦争停戦直後のイラクを舞台にした、「スリー・キングス」という映画があります。
主人公のアメリカ兵が撃たれて、銃弾が体内に入っていくシーン。
内蔵に突き刺さるまでを、体の断面でリアルに描写しています。
体内のココに弾丸が突き刺さっている、それを視覚的に説明してくれます。

あるいは「iの研究」(iGalleryのコンテンツです)で取り上げた「ピンポン」。
ピンポンの球の直ぐ後ろからのカメラアイ。
選手が打った時速百キロを超える球が相手のラケットに当たるまで、球の直後の視線で映像化しています。
球をCGで作成し、弾道をシュミレートして制作されたそうです。
後は、選手(俳優)のスィングフォームとの合成で完成です。

何れもイメージできなかった視点からの映像ですね。
デジタル技術の進歩と演出方法の変化が重なり合うようにして生れた映像です。
(前述した二作品は技術と演出が無理なく溶け合った好作品です。)
CF出身の監督がメジャーに進出してから、この傾向に拍車がかかりました。
いつもテレビでご覧になっているCF、あの過剰な視覚化を見れば納得できますね。
供給とサービス過剰な商品と丁度釣合っているような、過剰で情報過多な映像です。

映画を始めとするエンターティメントは、もともと見世物的性格を持っています。
大掛かりな虚の創出、スペクタクルです。
しかし、それがあまりにも過剰だと、カットとカットの間を読むヒマがありません。
想像力の働く余地がなくなってしまいます。
(あるいは、想像力を先取りされて、その力の行き場所を喪失します。)

「見えるもの」が多すぎて、「見えないもの」を見失います。
ヘタな言葉遊びのようですが、「見えないもの」とは何でしょうか。
文章でいえば、行間、マンガでいえば、コマとコマの間、のようなものです。
映画では、先ほど書いたようにカットとカットの間ですね。

間にある「見えないもの」を勝手に想像することによって、人は途切れた時空を連続させます。
「見えるもの」と「見えないもの」のバランスが良いと、物語は膨らみます。
豊饒な世界を見ることができるのです。
間にあった「見えないもの」を過剰に視覚化すると、そのバランスが崩れて、刺激だけが残ってしまいます。
過剰にもかかわらず、痩せた平板な世界です。
現代の重圧に満ちた日常が、表層の過剰な視覚を望んでいるのかもしれません。
何であれ刺激を、というせっぱ詰まった欲望ですね。
しかし受身の心地よさも、度を越すと自分自身が行方不明になってしまうのですが・・・・。



さて、絵画にとっての「見えないもの」とは何でしょうか。
テレビや映画、マンガと違って、基本的に絵画には時間の経過がありません。
静止した画像です。
でも、やっぱり間のような「見えないもの」はあります。
時間の間ではなくて、画面そのものに織り込まれた「見えないもの」です。

先ほど例に出した塩入さんの絵画に戻ってみます。
描かれたタオルとハンガー。
「見えるもの」ですね。
わたしが想像したのは、その関係性です。
モノとモノの関係性は、微(かす)かに見えた「見えないもの」です。

「見えないもの」をもっと見ようとして、画面を眺めていくと、「見えないもの」の姿が現われてきます。
関係性としての世界です。
あるいは、構造としての世界です。
つまり、わたしはそこに生きることの意味を観て(想像して)しまうのです。
タオルとハンガーの描かれた絵画の、「見えるもの」と「見えないもの」を往復しているうちに。

「見えるもの」と「見えないもの」の関係は、メタファー(暗喩)ではありません。
「見えないもの」を読む、ことでもありません。
思考ではなく、視覚の問題です。

このことは黒須信雄さんと当間裕子さんの作品で一層ハッキリします。
モチーフとして描かれた「見えるもの」と「見えないもの」の関係が曖昧だからです。
作品の「見えるもの」は具体的な、抽象的な何かを現していません。
極論すれば、「見えないもの」をダイレクトに「見えるもの」として描いているとしか見えません。
(過剰なテレビや映画とは正反対にある位相で。)
読み取るのではなくて、誤解を恐れずにいえば、観ることを強要する絵画です。

表層世界を過剰に「見えるもの」にするテレビや映画。
それに反して、深層の「見えないもの」に固執する絵画。
それは偶然ではなくて、視覚の危機に対する絵画の反逆ともいうべきものです。
静かに潜行しながら、絵画は視覚の謎をわたし達に突きつけているのです。

絵画の原初に、「見えないもの」があったことは想像に難くありません。
宗教的秘義は「見えないもの」を見ることであり、絵画は宗教的秘義と共にあったからです。
宗教的秘義とは、世界の秘密です。
世界の構造の秘密です。

絵画が今日まで生き延びた理由(わけ)は、その秘密にあるのかもしれません。
絵画がその古典的形式にもかかわらず、いまだに今日的(コンテンポラリー)であるのは、その秘密が有効だからでしょう。
秘密は秘密で、簡単に「見えるもの」ではありません。
「見えないもの」だから、秘密なのです。

わたし達が今日的絵画の前で困惑してしまうのは、絵画は「見えるもの」を描いている、という思い込みがあるからです。
そうではなくて、絵画は「見えないもの」を描いているのです。
ある場合には、「見えるもの」を通じて「見えないもの」の世界を。
又ある場合には、モチーフが消し飛んで、直接「見えないもの」の世界が。
「美」(見えないもの)と「術」(技)は、複雑に交錯して絵画を成立させています。
そして、「見えないもの」の有り様もそれぞれ違っています。

だとしたら、「見えないもの」はどうしたら観えるのでしょうか。
残念ながら、その答えはありません。
自分で探すしか、方法はないのです。
秘密の答えが向こうから簡単にやって来ないように、それは、こちらから出掛けて探索するしかありません。
貴方自身と視覚を武器に。




ご高覧よろしくお願いいたします。

藍画廊 夲展企画担当  ふくだ まさきよ






「美」と「術」2002  黒須信雄 塩入由美 当間裕子


2001年12月2日(月)-14日(土)

12月8日(日)休廊

11:30am-7:00pm(最終日6:00pm)

2日(月)5:00PMよりオープニングパーティをおこないます。

会場案内







BACK→CONTENTS