藍 画 廊

UNKNOWNS 2014
ART×CRITICISM
東京造形大学近藤昌美セレクト×慶應義塾大学美学美術史専攻 有志


本展は東京造形大学絵画専攻教授近藤昌美氏の企画で、慶應大学非常勤講師和田菜穂子氏と共同で藍画廊、ギャラリー現で開催されたものです。


この「UNKNOWNS」展は今回で3回目を迎える。今回が2回目と大きく異なるのは、一緒に企画してきた慶應義塾大学の近藤先生がこの2月にお亡くなりになられたことである。2012年の第一回展の前年にご相談したところ、慶應の批評としての参加を快諾してくださり、この「UNKNOWNS」展というタイトルも、まだ世の中に知られていないデビュー前のアーティストと評論家をショーケースに並べるという意味で、複数形の"S"をつける形でご提案してくださったものだ。またそれ以上に同世代の作家と評論家の卵を引き合わせることに大きな教育効果があると、本当に前向きに対応していただいてきた。しかし今回はその近藤幸夫先生が不在の中での開催になるが、私はそれを悲観していない。この形を残してくださった幸夫先生のご遺志が、わたしたちの周囲にはっきりlと残っているように感じるからだ。また和田先生という力強いご助力を得たことも大きく、新しい何かが生まれるかもしれないという期待感もあり、こうした小さな試み学生たちの未来の大きな一歩になることを願っている。最後にこの企画を実際に支えてくださっている、ギャラリー現の梶山さん、藍画廊の倉品さんには本当に感謝しています。

造形大学絵画専攻教授 近藤昌美


ふたりの近藤先生が始めた「UNKNOWNS」展、幸夫先生亡き後「やりたい」と手を挙げた慶應義塾の学生に対し、「見守り役」として引き受けることにしたのは、私自身、某美術大学で「キュレーターの卵」×「アーティストの卵」の企画経験があり、このような活動は是非支援したいと思ったからである。アーティストはもちろんだが、美術批評する側も「自分の言説」が世に出ることに対し、責任を持たねばならない。表現の手段は異なるが、美術作品も美術批評も「表現」に変わりはなく、どちらが上でも下でもない。フラットな立場で真剣勝負する場なのだ。ともすれば美術大学でない慶應義塾の学生は制作現場を知らず、作家の葛藤を知らず、展覧会場で完成後の作品を見て知った気になってしまう節がある。しかし同時代を生きる、同世代の作家の活動を知る上で制作プロセスの取材は不可欠であろう。その「生々しい」プロセルを共有することで、言葉遊びではない「リアルな評論」が生まれてくるのだ。そのような機会を与えてくださった近藤昌美先生には大変感謝している。そして今後も若手同士の
ART×CRITICISMの活動は続けていくべきだと思う。まずは今回の展覧会に際し、真剣に挑む皆さんにエールを送りたい。皆さんにとってこれが「はじめの一歩」になるのだ。

慶應大学非常勤講師 和田菜穂子


UNKNOWNS 2014の展示風景です。



各壁面ごとの展示をご覧下さい。



画廊入口から見て、左側の壁面です。



正面の壁面です。



右側の壁面です。



入口横の壁面です。

展示室の展示は以上の8点で、その他小展示室に9点の展示があります。
作品を一点ずつご覧下さい。




左壁面、左端の作品です。
仁禮 洋志さんの作品でタイトル「Untitled」(acrylic on canvas)でサイズ162)H)×130.3(W)cmです。



仁禮 洋志さんの作品で、「Aura」(acrylic on canvas)で130.3×130.3です。

仁禮 洋志さんの作品に対する慶應大学の学生のテキスト(作品解説)です。

彼の作品に共通しているのは“線”である。大学で出された家を描くという課題を発端に、家から箱、箱から線へと描く対象を変化させてきた。しかし彼は線を描くことに苦戦していた。「何も考えずに描こうとしつつ、気づいたら現実の物体に似た形を描いてしまうのは、恰好つけている自分がいるから」と彼は語る。 恰好つけずイメージと切り離して純粋に描く。今もなお習い事として続けているスポーツチャンバラの動きに、彼はその打開策を見出す。一度キャンバスという枠から離れて、壁に無造作に留めた布へと向き合った。そして筆をチャンバラの武器に、布をその相手に見立て、布に絵具をぶつけた。そうして描かれた線は大部分がかすれていた。それは、すべての部分を均一に塗っていた以前の線と比べて躍動的であった。それは、何かを描こうとして引いた線ではなく、純粋にチャンバラの動きを楽しんだ結果生まれた線であった。この布とのチャンバラによって、彼はアクション・ペインティングという新たな描法に辿り着いた。 描くことに苦悩する彼に「描くことは楽しいか?」という疑問を投げかけた。この問いに対して彼は、「もはや楽しいとか、そんな次元ではない」と答えた。絵をただ楽しく描くというのは趣味の次元に留まる話である。絵で自分を表現するという次元の中で、彼は日々描くことと格闘しているのだ。奇しくも筆者の無知ゆえの問いかけは、彼の作り手としての自覚やプライドを窺い知る契機となった。 作家としての自覚を持ちながら格闘を続け、描いた後に残る線ではなく、線を描く行為そのもので自分を表現する。このような結論に彼は至った。彼が自己表現に利用したかったのは、人でも動物でも物でもない。彼はだれよりもなによりも、線で自分を表現したかったのだろうか。 結果としての作品から彼が筆を武器に布と格闘した過程を思い起こす。そうすることで、作品が彼という人間を表現して生き生きとして見えてくるのではないだろうか。

美学美術史学専攻3年 宮崎 紗衣

心地のいい色彩で一面に塗られた背景に、何重にも色を重ねることで迷いのなくなった線で構成された幾何学的なモチーフがぽかんと浮かぶ。二次元的だが、仁禮の作品はどこかノスタルジックな印象を受ける。鑑賞者は作品を眺めながらこう思うかもしれない。彼は何を思ってこの作品をつくったのだろうか? 仁禮は感覚を大事にする。描く時は深く考えずにただ身体を動かしている。絵を描くというよりも、身体を動かすことで滲み出る自分が表現された作品をつくりたいと語ったのもスポーツチャンバラが趣味である彼らしい。しかし、彼が感じさせたいのはあくまでもこのような「動き」ではなく「自分らしさ」であるそうだ。その手掛かりになるのが線である。 線。それは仁禮の作品の中でも外すことのできない要素である。彼は線を何度も何度も色を重ねてなぞる。結果、線は強固になる。筆致や掠れは一見してもわからない。その大きな線に彼が見ているものは、自らが引いた一つ一つの線の重なりやはみ出しである。そこに彼は「自分らしさ」を感じとってほしいと言う。 仁禮曰く、絵を描こうと思って描くことは気持ち悪いと感じることであるそうだ。絵という枠組みから抜けたいとも考えている。更には自分を表現する方法は絵でなくてもよかったとも言う。けれども彼は絵を描く。娯楽のためではない。絵を描くことは仁禮の表現したい「自分らしさ」であり、彼とは切り離せないものであるのだろう。 彼は何を思ってこの作品をつくったのだろうか?この質問に対して答えを出すのは仁禮自身にとっても難しい。きっとそれは、彼にとって作品をつくることは習慣に近いものであることだから。

美学美術史学専攻3年 小川 こころ

仁禮の作品はシンプルに見えて、どこか奥深い。多くの作品にみられる特徴的な線から、きっと目が離せなくなるだろう。 その線は丁寧に塗り重ねられている。その結果、分厚く盛り上がっているものもある。まっすぐな線、曲がった線。全ての線を描くことに、迷いがないわけではない。だから彼は、下の線を認めて、何度も塗り重ねることで、自分の「意志」を確認する。作品の中身というよりも、作品を作る自分を見つめなおすのだ。 彼の作品では、線が立体と平面の間にいるような世界を作り出している。そこには何か独特な空間を暗示させる。枠にこだわりがあるわけではないという。しかし、家の自分の部屋や学校のアトリエ、そんな自分の場所。そこには区切られたスペースが存在する。これらが彼に少なからず影響を与えたのかもしれない。 作品には、何か特別な対象もなければ、荒々しく自分の中からにじみ出る熱いものをぶつけるというわけでもない。キャンバスに向かって、体が動くままに筆を動かしていく。彼の中にある何かが彼自身を突き動かすのだろう。最初から「こうしよう」というプランはない。また、線の形がイメージに行きついてはいけない。行きつきそうで行きつかない、絶妙なものが理想だという。そして、作品にタイトルはあまりつけない。同じようにタイトルからイメージに行きついてほしくないという想いからだ。 ドローイングを実際にアトリエでキャンバスに表すとき、「同じものを描く」ではなく、「同じように描く」を目指す。彼は描き順をもう一度たどり、そのときのことを思い出すのだ。思いついたこと、考えていたこと、感じたこと。あの時どのように、なぜこれを描いたのだろう。同じように再現してみる。その過程が大事なのだ。 以前、彼は自分が「かっこいい作品」を作ろうとしている自分に気が付いた。絵を描こうと考えすぎて手に力が入りすぎている。そのとき彼は布を壁に貼り付け、長い筆を感じるままに筆を動かした。これは絵を描こうとする意識から自身を解き放つための試みだった。彼は常に自分と向き合い、自身のことを客観視しようとしているのかもしれない。その冷静さが作品にも表れているように思う。 彼の作品に欠かせない線。それらに注目して、ぜひ作品を見てほしい。

美学美術史学専攻4年 伊藤 萌恵
 
骨太の線と余白で構成された一見単純な画面。近づくと見えてくる、盛り上がる程に塗り重ねられた絵の具や線のかすかな揺らぎは、何か言いたげなようで、簡単には掴ませてくれない。「観る人がどんなイメージにもたどり着かないようにしたい」と話すように、仁禮は作品になにかを語らせるつもりは無い。  身体の動くままに線を引き、確かめるようになぞって絵の具を重ねる。自分が今なにをしたのか、自分の衝動の正体がなんなのかを「ああ、そうだったのか」と発見する過程である。発見し、何度も確かめてやっとそれが自分のものだと認める。自分の認識できる範囲を少しずつ着実に広げていく。私たちがキャンバス上に観るのはその痕跡であり、出来事の一部始終である。  格闘技に関心を持つ仁禮は、最近では、長剣のようにした手製の筆を壁につるした布に向かって振り下ろすという、より身体的な方法を試みている。格闘技は身体をつかい自分の外にあるものと直接交渉する行為である。自分自身を確かめる過程に格闘技を用いることは、仁禮の「世界」の捉え方を表しているように思う。「どこからどこまでが自分の世界と呼べるのか曖昧で分からない」と話すように、仁禮は「自分の世界」というものに懐疑的だ。たとえ自分の内側にあるものだとしても、実体が掴めていなければ、内面の探求も対外の交渉と変わりないということを認識させられる。 「ドローイングから作品をつくり出す時には、同じ書き順でキャンバスに描いてみる」と話す彼の作品にとって、重要なのは過程である。だから、結果として残る作品にイメージをもたせることを良しとしないのだ。言葉やイメージに置き換えるのは簡単で、観るものを満足させ、安心させる。しかしそれは作品中に実際に存在している未分化の部分から目をそらさせることになる。私たちが仁禮の作品を理解したいと思う時、何の絵なのか、どんな感情の表出なのか、というような答えを求めるのはナンセンスだろう。イメージを排除しようとする仁禮の作品に、言葉による批評を行うこと自体ふさわしくないのかもしれない。キャンバス上の痕跡から、そこにある出来事を追体験するほかないのである。

美学美術史学専攻4年 宮本 久美子



正面壁面、左端の作品です。
阿知波 閑さんの作品で、「Untitled」(oil on canvas)で162×194です。



正面壁面、右端の作品です。
阿知波 閑さんの作品で、「Untitled」(acrylic on canvas)で53×45.5です。



入口横壁面の作品です。
阿知波 閑さんの作品で、「Untitled」(acrylic on canvas)で93×117です。

阿知波 閑さんの作品に対する慶應大学の学生のテキスト(作品解説)です。

「作品に題名は付けない。言葉に縛られず、固定観念を持たずに見て欲しい。いろんな見方があって良くて、それが面白い。」 阿知波はこう語る。テーマを模索中であるという彼女は、「絵を描く」という行為に対して非常に純粋であり、挑戦的である。抽象表現主義に近い思想を持つ彼女は、作品を通して「ものの見方」を変えることを試みている。  きっかけは、美術予備校時代から当然のように繰り返していた、「イーゼルに架けたキャンバスに絵の具で絵を描く」という行為の再考だった。そこで当時、彼女は布に絵の具を乗せ、その上に布を乗せ、更にまた絵の具を乗せるという行為を何度も繰り返したものを作品としている。これによって彼女は、普段と全く同じ素材を用いて全く新しい形態の作品を創ってみせた。それ以来、彼女は創造に対する実験と挑戦を続けている。  今回の展覧会では、写真から得たモチーフを使った作品を発表している。彼女はファッション雑誌のスナップや、自身で撮影した日常写真を加工したものを、元の写真とは全く異なる形態のモチーフとして捉え、作品を創った。日常的なものを、それとは気づかせずに見せることによって、日常から「新しいもの」を創造することを試みている。  彼女は色や素材によって作品のインスピレーションを得る。色と質感にこだわる彼女は、「違和感を覚える色や素材の組み合わせによって、印象に残るものを作りたい」と語る。冒頭の言葉に表れているように、作品の捉え方を観る者に委ね、自分の意図との違いさえをも楽しむ彼女は、絵を描くという行為に対し、新しい見方を欲する純粋な好奇心と、新しいものを創造する探究心に溢れている。

美学美術史学専攻3年 松本 理沙

阿知波の作品を見た時、あなたはそこから何を感じ、何を連想するだろう。しばし作品を眺め、考えてみてほしい。 彼女の作品には、何だか不思議な形をしたモチーフが隠れている。見たことのない変わった形、、、いや、どこかで見たことのあるような形、、、いったいこれは何だ? 観る者は作品に潜んでいるそれらのモチーフを眺め、頭の中で様々な連想を広げていくだろう。実は、これらの作品を印象づけている歪な形のモチーフの正体とは、阿知波が自身で撮影した写真を加工し再構成したものである。傘、ケーキ、目の前にいる友人の何気ない瞬間を捉えた一枚。こういった日常生活の断片を作品に取り入れているのである。誰もがどこかで見たことのあるモノを、本来の形象や色彩から遠ざけ、記号のように用いている。モチーフをコラージュ風に再構成し、独特の違和感を与えている。人物や静物など日常生活で誰もが目にするモチーフをドットやボーダーの中に潜ませ、二次元のフラットな色面に還元する。 一方で、それらのドットやボーダーなどの模様は無機的で機械的なものではなく、絵の具の凹凸や色のばらつきなどの制作過程の手の痕跡がきちんと残っており、観るものをさらに彼女の世界へと引き込むのだ。 今後、彼女の作品がどう進化していくのか期待している。

美学美術史学専攻4年 佐々木 満里奈
 
阿知波のキャンバスに浮き上がる、円や曲線、どこかで見覚えがあるようなシルエット。これらの繰り返しが、観ている者に図形の「手触り」を感じさせるのはなぜだろう。曲線は柔らかく、直線は硬く、霧のような水玉模様はひんやりと冷たい。作品を見ているだけなのに、触っているような錯覚が生まれる。  それは、彼女が持つ素材への眼差しが私たちの視点を少しずつ変質させていくことに起因するのだろう。私たちが普段見慣れている、日常に完全に溶け込んだモノたちが、彼女のカメラによって切り取られ、その構成要素が一度分解され、丁寧な眼差しをして分析され、再度置き換えられる。   この過程を踏むことによって、素材には従来とは異なる性格・質感が与えられる。今まで親しんできたはずの「あれ」だと思いきや少し違う。よくよく見てみれば、これは一体なんだろうか。そこで私たちは、見慣れた日常を慎ましやかに彩っていた素材が彼女の手によって、本来の目的を脱ぎ捨てられ、美術的な対象として生まれ変わっていることに気付かされる。私たちの眼そして脳が日常から非日常へ、いつの間にかスライドさせられているのである。  しかしこの非日常は決して私たちを不安にさせるものではない。温かな大地のようなえんじ色に、小雨のような白が織り込まれた小世界には、絶対的なやすらぎの得られる非日常が描き出されている。むしろ、この非日常のなかこそが、彼女がキャンパスの上に繰り広げる絵の具や描かれる図形にとっての本来の居場所だったのではないかという不思議な気持ちに囚われる。  日に日に進化する便利なモノたちによって快適でスムーズな生活が提供され続けている現在、私たちは日頃扱うモノに対して、正しい使い方さえすれば、そのモノが自らの使命を果たしてくれて当然だと考えるようになってきているのではないだろうか。しかし、彼女の作品を一目見て、咄嗟に「これはなんだろう」「みたことはあるはずなのにわからない」という疑問が浮かび上がる。キャンバスの上に浮かび上がる図形はどれも見たことはあっても、使い方がわからないものばかりだ。しかし決して不安になる必要はない。その疑問の先には、使い方がわからないものを受け入れるようになれた自分への祝福がある。彼女がモノに手探りに絵の具を重ねるたび、そのモノから使命は優しく引き剥がされてゆく。同時に私たちの眼も少しずつ変わっていくことを認めはじめ、使い方ばかりを求めず、新しい視点を獲得できたのだと、自分を誇らしく思えてくるのである。

美学美術史学専攻4年 早瀬 菫



右壁面、左端の作品です。
土屋 裕央さんの作品で、「意識の証明」(oil on canvas)で145×118です。



右壁面、中央の作品です。
土屋 裕央さんの作品で、「家畜について」(oil on plate)でφ70です。



右壁面、右端の作品です。
土屋 裕央さんの作品で、「生の認識」(oil on canvas)で116×116です。

土屋 裕央さんの作品に対する慶應大学の学生のテキスト(作品解説)です。

「人に何かを伝えようという気持ちは、特に無いんです」。 表現者としては珍しい土屋の発言に驚いた。一人ひとりが自分の眼で作品を見て、自由に感じ、それぞれの解釈を持って欲しいという。描く人間の顔に表情が無いのも、一定の感情を煽る事を防ぐ為だ。「むしろ伝わらなくていい」とさえ言う土屋はどうして、何の為に絵を描いているのだろうか。  樹海に座り込む女性、俯きながら歩き続ける馬、八つ裂きの刑にされた人…。どの絵からも、鬱屈した物語のワンシーンをキャンバスに焼き付けたかのような印象を受ける。どうして悩んでいるのか、どうしてそんな場所にいるのか、思わず絵に向かって問いかけたくなる。前後の物語が気になってしまうのだ。モチーフが全く異なるこれらの絵から受ける印象が等しいのは、共通したテーマのせいだろう。それは「死」だ。樹海の女性も、歩き続ける馬も、刑に処されている人も、死に追いつめられ、死に向かって進み、死に直面している。土屋は、身近な人の死をきっかけに「死」というものを意識するようになったそうだ。このテーマに関してはまだ消化しきれていない様子だった。  絵を描き始める前にゴールは決めない。考えながら足りない部分を描き足していく。描き終えた、満足した、と思ったらそこがゴールだ。土屋はそのゴールを「成仏」と呼ぶ。  このスタイルに、絵を描く理由が見えた。それは「自分自身が成仏するため」ではないだろうか。土屋は身近な人の死の経験によって、死に対して不安感を人一倍大きく抱いているように感じる。自分のイメージする「死」をキャンバスにぶつけ、考え、またぶつける。整理し、理解する事で「死」への謎や不安を払拭しようとしているのだ。彼のこのスタイルを知れば、冒頭の「人に何かを伝えようという気持ちは特にない。むしろ伝わらなくてもいい」という発言にも納得がいく。土屋が「死」の理解に近づき、成仏したと感じた時点で絵は完結しているからだ。絵は土屋自身とキャンバスの対話の結晶で、おそらく究極的には鑑賞者の存在は無くても構わない。しかし、不安な気持ちが強くぶつけられている分、鑑賞者は「どうしてそんなにも悩んでいるのだ」と絵に問いかけたくなるだろう。  「死に不安感を抱いている自分」が「成仏」できるその時まで、土屋はキャンバスに思いをぶつけ、絵を描き続けるに違いない。

美学美術史学専攻4年 沖長 真央


「なるほど」。  作品を描き終えると、土屋はそんな言葉を心の中でつぶやく。土屋にとって、作品を描くことは、自己との「対話」であり、ひとつずつ、自分の頭の中が整理されていくという。  誰かに何かを伝える手段としてよりも、ただ自分の想いを描きたい、表現したい。頭の中に散らばった日常の出来事や過去の経験を、画面とやり取りすることにより明確化していく。時にはキャンバスの前で、時には自宅で作品の写真を見ながら、「対話」が深夜にまで及ぶこともある。  作品の主要なテーマは一貫して、「時間」や「死」であり、それらを様々なモチーフにのせて描き出す。多くの人にとって、「時間」は永遠、「死」はその永遠を断ち切るピリオドを連想させる。正反対のようにも思えるが、土屋の中で、この二つは連動している。「死」の後には、永遠の「時間」が続いているのだ。土屋の絵にしばしば登場する馬のモチーフは「時間」を表している。馬はどこまでも歩き続け、時に立ち止まり、再び歩き出す。まるで、画面の外にも、その風景が続き、永遠に歩いて行けるかのように。このように見ていくと、「死」は、終わりではなく、永遠と流れる時間の中のひとつの通過点に過ぎないのかもしれない。  ふと、背景に目を向けると、不可思議な記号のような模様が飛び込んでくる。まる、さんかく、斜線…。「記号はもう描きたくない」という土屋の言葉と裏腹に、それらが作品の中に散りばめられ、存在感を増している。全体的に暗い色調の画面の中で、紛れようとしているようにも、主張しているようにも見える。ただ画面を埋めるのではなく、記号の持つ無機質さは、中心のモチーフの柔らかさを際立たせる。そう考えると、記号に対比されるモチーフが示す「死」は、その直前まで体温があり、呼吸があり、「生きていた」「命があった」痕跡をもつ存在なのである。  土屋の描く「時間」は、絶えず流れ、そこには「生」と「命」の終わりを告げる「死」がある。「死」と「生」は決して対立しているわけではなく、長く流れる時の中で、切り替わる表裏一体の存在なのだ。 「なるほど」。  土屋の作品を見ると、鑑賞者もまたひとつ、自分の頭の中が整理されていく。

美学美術史学専攻4年 倉友 粋


生きることには「限り」があるということを自覚しながらも、普遍的な答えの無い問題について考え続けることは、いかにも人間らしい。 土屋いわく、彼は作品の殆どを「時間」「死」「永遠」といったテーマのもとで制作している。私は、それらの概念によって示唆されるのは「人間の有限性」ではないだろうかと思う。 土屋によって描かれる作品には、人物、馬、ロープや柵、模様あるいは紋様といった要素がよく登場する。その中でも馬は、彼にとって時間を象徴するモチーフとしての側面があり、その真っ直ぐに歩いていく姿が時の進む様子と重なって見えるのだそうだ。確かに一定のテンポで四肢を運びながら前進する動きは、時計の針にも似ているかもしれない。そしてその歩みには、人間と異なり止まることなくどこまでも進み続けるイメージがあるという。また、画面に描かれた馬はその多くが横を向いており、鼻を向ける先に時間だけでなく空間の広がりをも感じさせる効果があるのではないだろうか。これと同様に、画面に散らされた模様のような図形も、描かれた空間がどこまでも延びていく連続性を際立たせているようだ。その一方で、人間ひとりにとっての限られた時間や空間を表すのが人物や囲いなどといったモチーフだろう。それらが表す一人の人間に生きることが出来る範囲は、画面の外にまで拡張していく世界に対してとても小さなものに感じられる。 冒頭で挙げた作品制作のテーマを土屋が重んじることには、過去に経験した肉親の死が少なからず影響しているという。私には、こうして否定することの出来ない現実に直面して生まれる葛藤が、彼にとって作品制作のための大きな原動力のひとつであると思われる。制作を進めながら絵柄を決めていくのも、どこかでそういった感情に対し自分自身を納得させる理由を求めて描いているからなのかもしれない。  描き上げた作品を見て、土屋は自分の考えを深めるのだそうだ。鑑賞する人が何を感じるかは自由だとも彼は言っているが、私も作品と向き合うことを通して思考することを続けたいと思わされた。

美学美術史学専攻4年 竹内 美保

ギャラリー現、齊藤康平さんの作品。

ご高覧よろしくお願いします。

UNKNOWNS ART×CRITICISM 2011

 

会期

2014年8月18日(月)ー8月23日(土)
日曜休廊
11:30amー7:00pm(最終日6:00pm)


会場案内