藍 画 廊

UNKNOWNS
ART×CRITICISM
東京造形大学近藤昌美セレクト/慶応義塾大学近藤幸夫ゼミ合同展 -


本展は東京造形大学絵画専攻教授近藤昌美氏の企画で、慶応大学美学美術史学専攻教授近藤幸夫氏と共同で藍画廊、ギャラリー現で開催されたものです。

UNKNOWNS

今回のこの企画は、東京造形大学の教員である私がセレクトした4人と、慶応義塾大学の近藤幸夫ゼミナールの学生とを、一人ずつ組ませて作品と批評の相関を生み出そうという企画である。
「UNKNOWNS」というタイトルどおり、両大学の学生達は、やっとそのスタートラインに立とうとする者たちである。
絵画作品と批評は不可分なものであるが、同世代の制作をする者と美学美術史を学ぶ者が相互に刺激し合いながら、対峙した作品と批評とを同じ空間に投げ出す時、なにがしかの化学反応が起きることを期待して、今展を企画した。

東京造形大学教授 近藤昌美

キュビスムの例をあげるまでもなく、「美術」という現象は、作る人(アーティスト)、語る人(評論家、ジャーナリスト)、知らせる人(ギャラリスト、プロデューサー)によって成り立っていると思う。
どれが欠けても歴史や社会の俎上に表現をあげることはできない。
今回の試みは、学生たちにこのことを体感してもらい将来へと繋げたいという造形大の近藤さんと私の願いがこもっている。
作る側は造形大、語る側は慶應が担当し藍画廊とギャラリー現のご指導のもと展覧会を作ってみたい。          

美術評論家/慶応義塾大学理工学部准教授 近藤幸夫                          2012年8月



UNKNOWNSの展示風景です。



各壁面ごとの展示をご覧下さい。



画廊入口から見て、左側の壁面です。
大久保薫さんの作品です。
左から、タイトル「風景1」、「風景1.2」、「風景1.3」で、サイズは3点共162(H)×130(W)cm、キャンバスに油彩です。



正面の壁面です。
生井沙織さんの作品です。
タイトル「Heart and the Lungs 2012 of Snow white ~ a sample ~」で、200×60×10、200×139×10、200×60×10、紙に木炭、布に鉛筆、木材、 アクリル板、グラファイトです。



右側の壁面です。
高山夏希さんの作品です。
左から、タイトルは2点共「untitled」で、サイズは160×172.3、197.5×159.3、キャンバスにアクリル絵具です。

以上の6点と3点の小品で藍画廊のUNKNOWNSは構成されています。
(ギャラリー現は北島麻理子さんの作品です。)







大久保薫さんの風景シリーズ3点です。
この作品に対する慶応大学の学生のテキスト(作品解説)です。

大久保 薫(絵画専攻4年 1990年生まれ)  
絵画における永遠のテーマの一つが、人体表現である。
その課題に真っ向から挑む彼の興味は常に一貫して肉体に向いている。
これまで大久保の作品に描かれてきた肉体は、それそのものはずっしりとした量感を持っているにも関わらず顔や表情はうかがい知ることが出来ない。
そうした個別化されない匿名の実体は、「妙なリアル感」を画面に漂わせており、青味がかったモノクロの色彩もその雰囲気を強めていた。
だが今回の出品作で見られる肉体は、それまで閉じ込められていた現実と非現実が曖昧な世界から抜け出し躍動を始める。  
当初より色彩はわずかに増え、また筆跡もなめらかなものから荒く筆の跡を残す方向へと変化した。
色数を増やすことによって、観る者に解釈の余地を与えるようになったことも変化である。  
肉体に関心を持ち始めた2010年頃、大久保はモデルなど用いず、全くの想像で描いていた。
しかし翌年には限界を感じ、自分の体を撮った写真を素材として作品を描くようになり、現在は新聞の切抜きやアダルトビデオの動画など、世の中に転がるありとあらゆる「肉体」を参考にして作品を制作している。
本作品も、新聞の社会面に掲載されていた政治家の写真を元に描かれたものである。  
大久保は「描く」という行為を重視する。
美大に通う兄の影響で幼い頃から描き続けてきた大久保のデッサン力には目を見張るものがある。
しかしこのデッサン力が制作において邪魔になることがあるとも語る。
コントロールの及ばない制作を目指し、最近は長い棒に絵筆を括りつけて描いている。
それは自分という肉体が行為として描くことを行っているということをより強く認識させる。
またそれによって作り出された画面は鑑賞者にも同様の感覚を抱かせる。  
彼が「描く」上で一番大切にしているのは、鑑賞者との対話だという。
彼は観念的表現ではなく、自身にも説明不可能な直感の形象化によって、鑑賞者との対話の余地を作り出す。
そして自身の表現を共に紐解いて行く事を、「描く」ことの理想としている。
一人よがりを嫌い、作る人と観る人の距離を重んじる彼は、とても「人間的」「社会的」といえるだろう。
それは、肉体への憧憬と描く衝動に突き動かされ制作する彼の「動物的」な側面と鮮やかな対比をなしている。
彼の作品の孕むこの一見矛盾しているかにみえる二面性が、観る者に新たな発見と対話の形を与えているともいえるのではないだろうか。( 黒川踏葉、小山裕美、高橋 愛、岩下茉莉子 )

*解説は、複数の学生のテキストを近藤幸夫(美術評論家/慶応義塾大学理工学部准教授)がまとめ、加筆、修正を加えたものです。



生井沙織さんの「Heart and the Lungs 2012 of Snow white ~ a sample ~」です。
この作品に対する慶応大学の学生のテキスト(作品解説)です。

生井沙織(絵画専攻大学院2年 1987年生まれ)
生井の作品は、一見すると異質なものや意外な組み合わせによるものが多い。
関連のないイメージや、ストーリーと造形物などを組み合わせたインスタレーション作品をこれまでに手がけてきた。
言葉やイメージの固定的な関係や既存の意味に疑問を差し挟み、それをずれさせることによって私たちの知覚を広げようと試みるのが生井の作品に共通した特徴である。
グリム童話『白雪姫』の中で、継母で白雪姫の美しさに嫉妬する妃が、殺害した白雪姫のものであると思い込んで、猪の心臓と肺を食べてその美しさを得ようとする場面がある。
それはおぞましい場面ではあるものの、女性なら誰もが潜ませているかもしれない狂気の表出でもある。
生井はその場面から着想を得て、樹やハートといった『白雪姫』から抽出された記号を反復することによって、私たちの感覚にズレを起こさせる。彼女が使用している木炭という画材は、支持体に定着しにくい。
まるでそれ自体が、捉えようとする意味の不確かさを表現しているかのようだ。
木炭の陰影から浮かび上がるイメージは、私たちに不安すら感じさせる。  
雪のように白い肌、黒檀の木のように黒い髪、血のように赤い唇…。
この世で一番の美しさを持った白雪姫のお話の世界を、生井沙織は見事に自分のものにしたように思われる。
彼女のつくる白雪姫はかわいいだけではない。
その中に潜む気味の悪い、しかし共感せずにはいられない感覚が表現されている。
生井の作品はすべてその背後に情熱と入念な試行錯誤が隠されている。
今回は、以前のように自身の作ったストーリーではなく、童話という誰もが知っている話を舞台としてもってくることによって、その作品世界をさらに深いものにしている。
( 外山有茉、神田あすみ )

*解説は、複数の学生のテキストを近藤幸夫(美術評論家/慶応義塾大学理工学部准教授)がまとめ、加筆、修正を加えたものです。





高山夏希さんの「untitled」2点です。
この作品に対する慶応大学の学生のテキスト(作品解説)です。

高山夏希(絵画専攻3年 1990年生まれ)  
人間ではないが動物でもない。男でもなければ女でもない。
どちらでもないが、どちらの要素も持っているような新しい存在を描き命を吹き込むこと、これが高山の作品である。
観る人が「今まで見たことのないもの、思いもしなかったものを見て、自分の世界が広がるような」体験をすることを目的としていると高山は語る。
それは、作家自身が中国のミイラを雑誌で見たときの感動や、博物館や美術館に行ったときに味わった驚きに起因する。  
幼い頃から自然に芸術と触れられるような環境のなかで育ち「何かに追われるからではなく、描いていないと落ち着かない」と彼女自身が言うように、高山は一つの作品に集中するのではなく、いくつかの作品を同時進行で制作することが多いという。  
また彼女は、生きものに接するとき、何を考えているのかを想像し、それを作品に繋げている。彼女は動物の習性、例えば闘魚のショーベタが戦いの際に美しい尾ひれを開くという習性から、自分を綺麗にみせようとするという人間の内面を見いだしている。
彼女の作品には、動物の習性に自分の実体験を重ねあわせたものも多い。
「絵として自分が描いたことで、生きものが立ち上がってくる、描かれたものが生きものとして生まれる」ことを高山は願っている。
実際、暗い場所で高山の作品に照明を当てると、作品に影が生まれ、より立体的に見えてくる。
それは、崇高さと自尊心、また寂しさを湛えて私たちに語りかけてくるかのように思われる。
もしかすると、彼らはある意味で作家自身の分身なのかもしれない。
( 加藤郁子、市川珠希、飯塚幸乃 )

*解説は、複数の学生のテキストを近藤幸夫(美術評論家/慶応義塾大学理工学部准教授)がまとめ、加筆、修正を加えたものです。

ギャラリー現 北島麻理子さんの作品案内

北島麻里子(絵画専攻3年 1987年生まれ)  
北島の作品は、観るものに強く「肉体における生と死」を意識させる。
例えば、《5598》は、飼っていた犬の遺骨を粉末にして落雁の型に入れ固めた作品で、「5598」は犬の生きた日数である。
また、《Feather to which the crow get wet》は、木製パネルに毛髪を縫い付けたもので、毛髪はヘア・エクステンションに使用する為に販売されている黒い人毛を使用している。
《Self Portrait》では、樹脂と作家自身の血液を使用している。
「私の絵は『死』とか、そういうテーマを意識しているわけではなく…むしろ一度本体の手を離れて意味がなくなったものの再生という意味で明るいのです」と北島は語る。
確かに見方によっては、抜け落ちた髪が森のように、割れた卵が金色に輝き、役目を失ったものが、今一度新たな創造へと生まれ変わるその様は、希望を感じさせる生への躍動感に溢れたものと言うこともできるだろう。
しかし、その一方で、北島は卵の殻を金継ぎしたり、髪の毛で刺繍をしたりという「行為」そのものには特に意味はなく、その意味のない行動「答えの出ない感じ」が好きだとも語る。
そして、観る者を突きはなすように、作品を通して色々想像を巡らしてもらいたいのだとも述べる。   
今回出展されている《永遠の繰り返し》は、2012年から始めたペン画の作品である。
ここに描かれている女性は作家自身の写真を元に描かれており、このシリーズのモデルはすべて作家がモデルである。
自身で着物を着用し、その様子を撮影し、出来上がった写真を拡大コピーし、シリウス水彩紙にトレースしたものを、大学生がよく勉強に使う、身近なペンHI-TEC-Cの0.25、0.3、0.5mmで仕上げている。
この作品は、ペンで描くシンプルでこつこつとした動作の積み重ねから出来ている。
しかし一方で、繊細な筆致のペン画は、カラヴァッジョの絵画を彷彿とさせる不気味で意味深長な構図を採用しており、それが我々の目をひきつける。  
このような北島の作品は、なぜか不気味さよりも、観ている私たちを安心させるところがある。
それは、彼女の作品が、私たちにリアルな生命を伝えているからではないだろうか。
考えてみれば、現代の東京は不思議な場所だ。
渋谷の交差点。
乗車率200%以上の満員電車。
大教室で受ける授業。
マニュアル通り繰り返されるアルバイトの声。
これらはどこか不自然で、このような状況の中にいると、自分の存在が希薄になるように感じられる。一人一人の存在価値が薄まり、そして消費されていく。
しかし、北島の絵画は、生きている動物としての人間的な世界に我々を引き戻すような強い何かを持っている。
彼女の描く題材や、作品に使われている材料(髪、血液、犬の骨)は、生々しさと同時に真に迫る存在感を持つ。
そして、彼女の作品と対話する事によって、私たちは自分の持つ「生」と向き合う事ができるのではないだろうか。
( 稲垣里芳、角谷神奈、長谷川佑季、南條志緒マリオン )

*解説は、複数の学生のテキストを近藤幸夫(美術評論家/慶応義塾大学理工学部准教授)がまとめ、加筆、修正を加えたものです。



ご高覧よろしくお願い致します。

 

会期

2011年8月20日(月)ー8月25日(土)

11:30amー7:00pm(最終日6:00pm)



会場案内