河田政樹展「By」の展示風景です。
画廊入口から見て、正面と右側の壁面方向です。
床に多数の鉢植が置かれ、壁面には写真と絵画が展示されています。
正面壁面の左の二点は、布に油彩、及び鉛筆で描かれています。
その右は写真で、ラムダプリントです。
右壁面の一点は紙に水彩です。
入口横右の壁面です。
絵画が四点展示されています。
手前が布に油彩で、他の三点は布に水彩、色鉛筆です。
左壁面方向の展示です。
壁面には写真が一点で、ラムダプリントです。
床には、ご覧の通り鉢植が数多く置かれています。
画廊内の展示は以上ですが、その他道路側ウィンドウに一点、芳名帳スペースに二点の絵画作品が展示されています。
壁面の写真と絵画は、別段変わった作品ではありません。
しかし、床に多数置かれた鉢植の意味は何でしょうか。
壁面の作品と、どういう関係があるのでしょうか。
河田さんにお話を伺ってみました。
鉢植は、下町の民家の路地(露地)などに置かれている鉢植と並べ方が基になっているそうです。
その、秩序のない並べ方と、独自のアバウトな育成感覚を表現しています。
これは悪い意味ではなくて、その普通さ加減とでもいう感覚に、河田さんの目が留まったからです。
一点一点見ていると、愛おしく美しい鉢植です。
わたしにはこういう趣味はありませんが、眺めていると、鉢植を愛で育てる人の気持ちが分かります。
路地に置かれている鉢植の置かれ方は、いい加減というか無造作というか、その存在を過剰にアピールしていません。
対照的なのは、昨今流行のガーデニングです。
(イギリス発のガーデニングの祖は、日本の下町の路地の鉢植ですが。)
ガーデニングには、どこか自己表現が露出していて、人為の構成が存在しています。
その違いを突き詰めていくと、(大袈裟にいえば)世界観の相違になります。
ま、そこまで考えなくても、(気が付いてみれば)路地の鉢植の普通さ加減には、見逃せない意味がありそうです。
あの置かれ方には、庶民の自然観や人生観が表出されているような気がします。
正面壁面の写真作品です。
樹木と葉を撮影した写真で、撮影者は河田さんです。
ここで、展覧会タイトルの「By」が頭に浮かんできます。
Byとは前置詞で、一般的に「〜によって」という使われ方をします。
例えば、カメラによって(河田さんによって)撮影された樹木と葉、という風に。
入口横右壁面の絵画です。
これも、河田さんによって描かれた植物です。
普通に考えれば、上の写真の客観性に比べると、モロに主観が出た作品に見えます。
しかし写真に客観性があるかといえば、かなり疑わしいことも事実です。
それでは、路地の鉢植の「By」とは、そこに住む住民のことでしょうか。
確かにそうですが、その行為の背後にある何かを指しているような気がします。
前述した、庶民の自然観や人生観のようなものです。
別のいい方をすれば、普通さ加減とでもいう感覚の、出所です。
もしかしたら、それが「By」の意味するもので、展覧会のテーマかもしれません。
以上は、わたしの感想で、作品の見方はもちろん自由です。
もし疑問や質問があれば、河田さんに質(ただ)してみて下さい。
当然、そこから違う見方が出てくると思います。
個々の作品は、作品として独立しています。
(写真、絵画を興味深く拝見させていただきました。)
通常のインスタレーションとは、全体と部分の関係が多少異なります。
その特異な繋がり方が、展覧会を分かり難くしているかもしれませんが、それこそが河田式の美術です。
河田さんが開拓している、美術のジャンルなのです。
ご高覧よろしくお願いいたします。
2005年藍画廊個展
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