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『ポストPC』


わたしは筆記用具の書き味というものには、いささか煩(うるさ)い方です。
先日も銀座の伊東屋の前を通ったら、店頭でボールペンのセールスプロモーションを行っていました。
ついフラフラと試し書きをしていたら、「油性で水性の滑らかな書き味」という販売促進員の言葉に釣られ、購入してしまいました。
確かに心地良い書き味でしたし、1本150円でしたから、衝動買いの部類にも入らないと思います。

かようにペン類にはこだわる方ですが、ボールペンで、これぞというものは所有していません。
それは根がケチで、煩い割にはペンに投資しないので、安物しか持っていないからです。
捨てるに捨てられない、購入したり景品でもらったりしたボールペンが山ほどあります。
どれもが書き味がイマイチで、引き出しにしまい込んであります。

書き味に煩いわたしですが、最近までは、実際に紙に文字を書くということをほとんどしていませんでした。
専ら、キーボードでディスプレイに向かって入力しているからです。
お陰で入力は速くなりましたが、漢字がすっかり書けなくなってしまいました。
図形としてボンヤリ頭の中に浮かんでいる漢字が、書けない。
しかも元々ヘタな字が小学生以下に退化してしまっています。
これはいかんと思ったわけではないのですが、近ごろ文字を手で書いています。
リハビリを兼ねて、iGallery DCの案内状の宛名書きを毎回350枚ほど書いています。



そういえば、小説家の西村賢太も筆記用具にはこだわりのある人です。
この人がパソコンのワープロソフトなどを使用している姿は想像も出来ませんが、高価な万年筆の類はダメで、ごく普通の黒ペンを愛用しているそうです。
その黒ペンなるものがどういうものか分かりませんが、多分、安価なペンの一種ではないでしょうか。
でも、それでないとスムーズに書き進められないそうです。

話が脱線しますが、わたし、西村賢太の私小説(わたくししょうせつ)にハマっています。
こんなエンターテイメントな私小説は初めてです。
とにかく、面白い。
最初は芥川賞受賞のコメントと経歴にひかれて読み始めたのですが、これほど笑えて、続きが読みたくなる小説は久し振りです。

本人はダメな奴と盛んに自己を卑下していますが、その小説の完成度と、師と仰ぐ藤澤清造への(真性の)リスペクトは賞賛に値します。
西村啓太の描く人間には、血も涙も通っています。
その人間がいかに愚かで、酷い人間であったとしても、人間の滑稽さや温かさは滑り落ちていません。
そこが、この人の小説の魅力です。



さて、ここまでは前ふりです。
落語でいえば枕にあたるところです。
なんとまぁ、長い前ふりでしょうか。

本題は、先ごろアップデートされたiPad2についてです。
タブレットコンピューターはiPad以前にも多くの機種が開発、発売されましたが、まったく売れませんでした。
タブレットの強みは、キーボードやマウスを主なデバイスとしない、簡易な操作性にあります。
指で直接パネルにタッチする、その直感的な分かり易さは、操作のスキルを低減して、コンピューターへの敷居を低くします。
しかしながらどの機種もまったくといっていいほど売れませんでした。

その原因の一つには、専用のOS(プラットフォーム)が用意されていなかったからです。
どれもがWindowsを基に作られていて、そして、Windowsはキーボードとマウスで操作することを前提としたOSです。
これでは上手くいくはずがありません。
PalmというPDA(携帯情報端末)はタブレット専用OSでしたが、機器としての決め手のなさが、携帯電話、とりわけスマートフォンに吸収される結果となりました。

iPadが爆発的な売れ行きをみせたのは(つまり支持されたのは)、今までのPCの文法を捨てて、タブレットコンピューターという新たな分野を築いたからです。
PCの文法の替わりに、タブレットコンピューターの文法を確立したからです。
わたし自身はiPadを所有していません。
しかし、iPadのポストPCという可能性を含む、パーソナルコンピューターの動きには関心があります。



ネットブックというブームがありました。
つい数年前のことだった思います。
そのネットブックに対して、Appleの出した答えがiPadでした。
しかしiPadは電子書籍リーダーという側面が強調されすぎて、当初は、そのコンピューターの全体像が理解されなかったように思えます。
わたし自身もiPadの可能性については、さほど関心がありませんでした。

しかしあの爆発的な売れ行きを見ていると、考えが少し変わりました。
もしかしたら、PCの後継として、コンピューターの主流になるのではないかと。
もちろんPCがなくなるわけではありませんが、主流は徐々にタブレットタイプに移行するような予感さえします。
アプリの増加と進化で、ホームユースならタブレットコンピューターで間に合う場合が多いからです。
しかも、タブレットにはAppleだけではなく、GoogleのAndoroidという大きな存在があります。

余談ですが、考えてみればGNU/Linuxがデスクトップとしては開花せず、形を変えてAndoroidとして世界に流通するようになったのには感慨があります。
AndoroidのベースはGNU/Linuxだからです。
Windows VS Macという図式は、今やApple VS Andoroidに変わりました。
もちろんAndoroidのベースがGNU/Linuxといっても、Googleという巨大な力があってこそですが。



iPadのタブレットとしてのUI(ユーザーインターフェイス)は、それまでのタブレットPCの文法と違うものでした。
iPod、iPhoneの流れから出てきたUIです。
操作の簡易性と視覚的効果を上手く組み合わせた、スムーズで、意外性に満ちた楽しい動きが特徴です。
しかも電子書籍に代表されるように、実用性も充分に兼ねていますし、各種プレゼンテーションにも最適な機器です。
そのUIを使った多くのアプリが生み出され、iPadの使用法にも、当初は思いも付かなかったようなものも出てきました。
Appleではなく、ユーザーやアプリ開発者がiPadの活用法を提案、実行している例が少なからず見られるのです。
その変化は、今までのPCにはあり得なかった動きです。

今までは、タブレット市場はiPadの一人勝ちでした。
しかしスマートフォン市場のiPhoneと同じように、今年は、Andoroid勢が怒濤のように押し寄せてきます。
Andoroidのアプリの数も飛躍的に増えていくでしょう。
数年は、先行したiPadのアドバンテージがありそうですが、その後は分からないでしょうね。

PCの操作を覚えるにはかなりの時間を要します。
少なくともわたしの場合はそうでした。
しかしタブレットには、初心者でも取っつきやすい親和性がUIにあります。
煩わしいOSのアップデートやバックアップも簡易にできそうです。
(当然、クラウドとの組み合わせが考えられますから。)

そういう意味では、本当のパーソナルコンピューターの時代とは、タブレットから始まるのかもしれません。
携帯電話(及びスマートフォン)というコンピューターを、多くの人が、何の抵抗もなしに使いこなしたように。
iPadの未来的ともいえる画面とその動きには、過去が夢見たコンピューターに相応しい新しさがあります。
(わたしが初めてMacやWindowsの画面を見た時には、その古くささにガッカリしたものですが。)
それは、パーソナルコンピューターの父、アラン・ケイの夢見た「ダイナブック構想」と重なる部分があるかもしれません。

ポストPC。
あり得るでしょうか。
数年後、わたしはタブレットに向かって発信しているかもしれません。
いつものようにどうでも良いことを書き連ねて。
もちろん、タブレットは書き味の良いものを使っている、はずです。
(西村賢太は相変わらず黒ペンを使って、同じようなことを書いていると思いますが。)