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中神さんからのメール/「殺風景」について



中神(なかがみ)さんからメールが届きました。
中神さんはわたしの飲み友達です。
以前は西荻窪のワインバーで、会う都度酔いにまかせていろんな話をしました。
その当時の中神さん(と奥さん)は予備校の教師をしていてましたが、今はご夫婦で西荻窪の
ダイニングバーを経営しています。

中神さんとはウマが合います。
しかも、考えていることが似ているのに思考方法が異なるので、わたしにとっては刺激的な会話の相手です。
歳はわたしよりだいぶ下ですが、教示を受けるのはいつもわたしです。
中神さんの方が論理的ですし、基礎的な学問の下地も厚いからです。

その中神さんが、「藍画廊 沖葉子写真展」に記した拙文を読んで感想を送って下さいました。
ワインバーで話しているような口調で感想を書いてくれました。
わたしはメールの文章がとても気に入ったので、iGalleryに転載してもよろしいかと中神さんにお願いしました。
中神さんは快諾してくれました。
以下はそのメール本文です。
「風景」についての、明晰な見解だと思います。



「殺風景」について

こんにちは、中神です。
「藍画廊」を覗いてみました。
以下はその感想文です。

「映っているのは「殺風景」な風景です。
東京で、湾岸の埋立地ほど「殺風景」な場所はありません。
ここには土地の歴史がなく、生えているのは雑草ばかり。
なぜ、このような「殺風景」な場所を選んだのでしょうか。」

という解説を読んで、というより見て、あらためて「殺風景」という言葉について考えてしまいました。
「殺風景」。
「風景」を「殺」す。
または「風景」が「殺」されている。
誰が「風景」を「殺」したのか、またそれはなんのためだったのか。

まず、問題は「風景」にあります。
昔、近代以前には「風景」はなかった。
そこにあるのはレアな自然そのものの姿や人々の日常的な活動の痕跡そのものであって、「風景」とよばれるものは存在していなかった。
山は「山」だし、そこが神の棲家であれば畏怖と敬虔のまなざしで眺めた(見ると目がつぶれるからみないようにしていた、なんてこともあったかもしれない)だけだし、白河の関は歌枕だから、霞立つ春に旅立ったのにもう秋風が吹いているという文脈で見られていた、というよりそれ以外の文脈で見るのは野暮なことだった。

つまり、目に見える外の世界は濃厚な意味を持つ(神の棲家とか歌枕とか)ものとして見られるか、物自体として記憶になんの痕跡も残さないものでしかなかった。
というか我々を取り巻く所与の前提条件であって、意識にのぼらない。
まあ、自然の中に人が埋め込まれている状態なのかもしれない。

「風景」として捉えられるものは、まず濃厚な意味からニュートラルでなければならない。
そこに神が宿るのであれば、それは風景とは呼べない。
其の中に自分も包まれているとしたら、つまり人と自然が分離されていないとしたら、「風景」という視点は生まれてこない。
近代以前においては、後年「風景」呼ばれるべきものは、自分の延長としての自然か、素敵(?)なアニミズムの世界だった。

どうも、「個人または近代的自我」というやつが怪しい。
「個人または近代的自我」はどういうわけか「自然」と敵対する。
敵対しないまでも仲が悪い。
「個人または近代的自我」の快適な生活を維持するためには「自然」を自然のままで放置しておくわけにはいかない。
だって僕たち人間って体力的にはひ弱だからね、頭はいいけど。
だから、うっとうしい自然はなんとか手懐けてしまわなくては。
幸い科学技術もあるしね。
ということで「自然」が対象になっていった。
そのとき「風景」も生まれた。


新明解によれば「風景」とは、「目を楽しませるものとしての、自然界の調和の取れた様子。
〔好ましい場面の意にも用いられる。〕」
ということになります。
ほら「個人または近代的自我」が後ろで糸をひいている。
誰の「目を楽しませる」のか。
誰が「調和の取れた」という判断をするのか。
そして誰にとって「好ましい」のか。

例えば山奥の農村の段々畑の写真があるとしよう。
美しくも何故か懐かしい風景である。
しかしそれは「自然界の様子」ではない。
文明の発達以降、畑は「自然」ではないから。
それなのに「自然界の調和の取れた様子」と見てしまう。

そうか、「調和の取れた」というのは「飼い馴らされた」ということなんだな。
そんな見方が逆立ちして、荒涼とした砂漠や険しい岩山や挙句の果てには月面にまで「風景」を見てしまう。
自然そのものと付き合うことができない「個人または近代的自我」が自然を飼い馴らしていく途上で美しいと感じたものそしてそこに「調和の取れた自然界」を感じさせるものを「風景」と呼ぶようになった。
そして「風景」というテンプレートが成立する。

さて、その「風景」が「殺」されている。
どのように殺されたのか。
ひとつは「調和」が崩れることとで「風景」は死ぬ。
また「自然界(と「個人または近代的自我」が規定する様式)」から逸脱することで「風景」は「風景」でなくなる。

ふつうその逸脱は自然から人工へという方向性でなされる(とここまで書いて、機械の動きにも自然を感じるような感性を僕たちは育ててきているのだ、と思ってしまった)。
雑草がただ雑草として生えていたり、機械がただ機械としてそこにあったりすると風景にはならない。
雑草は飼い馴らされていないから風景にはならない。
しかしそこには見ることのできる「自然」が存在するので、切り口を変えると風景となる。
また、機械を動かしているエネルギーはもともと「自然界」に存在したものだ。
実は風景は殺されていない。

問題はどうやら「風景」というテンプレートを成立させている「個人または近代的自我」の思考のスタイルなのだろう。
そのようなスタイルを一挙に瓦解させることはとうてい不可能なのだから、だから次々とずらしていく。
常に逸れていく。
そうすると、例えばレアな自然が少しだけ見えたりするのかもしれない。