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具象と抽象


今回のテーマは「具象と抽象」です。
といっても、美術の話ではありません。
美術とは関係のない話ですが、ひょっとしたらどこかで繋がっているかもしれません。

まずは、下の画像ですね。



わたしのMacOSX(テン)のデスクトップです。
Candyな五色iMacのデスクトップピクチャーを使用しています。
(つい最近、初代iMacはとうとう生産中止になってしまいました。)
趣味が良いのか悪いのか分からない、デスクトップの風景ですね。

このiMacは五色のセカンドバージョンのiMacです。
随分前のような気がしますが、つい三年前の発売なんですね。
もう十年もたったような気がします。
まさにデジタル世界はドッグイヤーですね。

前にも書きましたが、わたしの夢はiMacを全色揃えることです。
200万円もあれば実現できる夢と書き飛ばしましたが、いまだに一台しか所有していません。
200万円の重みを実感している、今日この頃です。

ま、今に見ていて下さい。
iMacのメモリアルホールを作って見せますから。
ご不要のiMacがありましたらご一報いただきたく思います。
(↑自分でも情けないと思いますが、現実を直視すれば致し方ないと・・・・。)

そういう話ではなかったですね。
「具象と抽象」がテーマでした。
では、次の画像です。



デスクトップピクチャーをオーソドックスなソリッドブルーに変えてみました。
右上に注目して下さい。
本来在るものが、無いですね。
そうです、HD(ハードディスク)のアイコンがありません。

最初のデスクトップには二つのHDのアイコンがあります。
これは、わたしがHDを二つのパーティションに切って、MacOS9とMacOSXを別にインストールしているからです。
次のデスクトップも同じ状態なのですが、HDを非表示にしてみました。
表示のオプションでこれが選択できます。

HDのアイコンやエイリアスが無いと、本当にスッキリしてますね。
スッキリしすぎてマンションのモデルルームのようですが、気分が良いことは確かです。
このブルーは、春の空というよりは雲一つない澄み切った秋の空に似て、どこまで空が続いているように思えます。
ノビノビとデスクトップで作業ができるような気がしますね。

これはOSXだからできる芸当です。
OS9だったら絶対に不可能です。

OS9までのMacは、デスクトップ上を具体的な「モノ」のメタファーとして提示してきました。
コンピュータのデータはHDに集積されています。
OS9までは、HDのアイコンの無いMacというのは想像できませんでした。
何事も、HDのアイコンをダブルクリックすることから始まるのですから。
実際はデスクトップ上のエイリアスやランチャー、アップルメニュー、あるいは割り当てたファンクションキーからファイルやアプリケーションにアクセスするとしても、概念上はHDのダブルクリックからすべては始まります。

Windowsのユーザーにはピンとこない話ですね。
WindowsにはもともとデスクトップにHDのアイコンなんてありませんから。
ファイルマネジャーを使って階層を把握し、目的のアプリケーション、ファイルにアクセスします。
ですから、Windowsに馴れたユーザーがMacに触ると戸惑います。
「あのMacintosh HDというアイコンは、何?」、になります。

OS9でリムーバブルメディア、つまりCDやMOを挿入するとどうなるかというと、ページ一番上の小さな画像のようになります。
この画像自体はOSXでキャプチャしたものですが、OS9でもまったく同じようにデスクトップに表示されます。
CDを挿入すると、デスクトップ上には今までなかったキラキラ光るCDのアイコンが現れます。
OSXではリムーバブルメディアも非表示にできます。
「じゃ中身をどうやって見るの?」、という疑問の答えは下の画像です。


OSXのファイルブラウザであるFinderの第一階層を開いた画像です。
ここにHDと並んで表示されます。
HDやリムーバルディスクにアクセスするのには、DocのFinderをクリックすれば良いのです。
Docというのはデスクトップの下にあるランチャーのことです。

話が若干専門的になっています。
そこでチンプンカンプンな閲覧者へのサービスとして、ウィンドウの背景色をラベンダーにしてみました。
デフォルトは白で、わたしも白で使用しているのですが、それじゃ画像に変化がなくて面白くないので変えてみました。
ちょっと、面白いでしょ?

インサートされたCDの中身をみるのには、CDのアイコンをダブルクリックします。
そうすると・・・・。


ウィンドウはこのように変わります。
中身が表示されましたね。

Webブラウザと同じように「戻る」、「進む」でウィンドウを切り替えていきます。


CDを挿入するとデスクトップにCDのアイコンがマウント(認識/表示)されるのに比べると、随分抽象的ですね。
OS9までは、CDという具体的な「モノ」を入れればデスクトップにそれが具体的に現れました。
表示、非表示の選択肢はなくて、必ず表示されました。
OSXのファイルブラウザというツールを使わなくても、物事は進行していったのです。
(実際はOSXのデフォルトは表示ですから、CDのアイコンがデスクトップに表示されます。ここでは選択肢のあるなしに力点を置いて話を進めています。)

別にわたしは、ここで別れた妻(=OS9)への感傷を語っているわけではありません。
認識の話をしているだけです。
具象から抽象への認識の話です。

OSXは具象化から抽象に一足飛びに行ったわけではなくて、折衷の状態です。
具象でもあり、抽象でもありの状態です。
もともとコンピュータというのは抽象の世界ではないか、とわたしは思っています。
それを具象で表現しきったMacOSは、異端中の異端ではなかったかと、思っています。

OSXのユーザーインターフェイスは、それに比べればかなり正統です。
WindowsはMS-DOSという抽象から出発して、途中でGUIを導入して折衷になりました。
(Windowsのことはそれほど詳しくないのですが、多分間違っていないと思います。)
その逆ですね。
ある意味で、OSXはWindowsのユーザーインターフェイスに近づいたともいえます。
つまりMacもWindowsもさして変わらなくなったのですが、決定的な違いはOSXにはTerminalがあるということです。
純粋な抽象的世界がそこにはあるのです。



これがTerminalです。
文字(テキスト)でコンピュータを操作する、CUIの世界です。
デフォルトではMacOSXのTerminalのウィンドウは白地に黒い文字です。
(本家であるUnixのTerminalは、逆に黒地に白い文字です。)

でもね、それって実に無味乾燥で、ただでさえ文字だけの地味な世界ですから、何か気分がノラないですね。
わたしは気分がノラないとダメな性質(たち)ですから、派手な方向に変えてみました。
これはチンプンカンプン閲覧者へのサービスではなくて、実際に背景をブルーベリー、テキストを白で使っています。
透明度のスライダーを上げて、後のウィンドウも透けて見えるように設定しました。

CUIのシロートが見ると、一見コンピュータの達人のデスクトップに見えますが、それは勘違い。
ここで打っているコマンドは初歩中の初歩で、ヨチヨチ歩きのコマンドです。
詳しくは書きませんが、CDのあるディレクトリまで移動して、その内容を表示させただけです。
一つ上の画像と同じことをしているだけです。
(今回はスクロールばっかりさせて申し訳ないです。小さい画像だと分かり難いもんですから。)

さて、ディレクトリ。
Macではフォルダといって、ファイルやフォルダを束ねるモノですね。
書類を束ねる容物、フォルダの意です。
ディレクトリはちょっと違います。
登記簿といったらいいのか、その場所(階層)にあるファイルやディレクトリの記録です。
具体的なモノではなくて、抽象的な概念です。

考えてみれば、文字(テキスト)も抽象的な概念ですね。
抽象とは、具体から本質を抽出したものです。
しかし、人間は抽象を与えられると必ず具体的なモノを想像します。
例えば、「空(そら)」と書かれていれば、読んだ人は必ず具体的な「空(そら)」を想像するでしょ。

話がチンプンカンプンだけではなくて、支離滅裂になってきました。
じゃ、ここで整理しますね。
コンピュータは二進法、つまり0と1ですべてを表現している(しようとしている)世界です。
ものすごく抽象的な世界です。
それでは一般の人には訳が分からないので、具体的なモノをメタファーとしたGUIが発展したきました。
MacやWindowsですね。
一方、抽象は抽象のままで、CUIを発展させてきたUnixという世界もあります。
その交差点がMacOSX。
ま、今回はそれを書きたかったわけですが、やはりチンプンカンプンだったでしょうか。
(春のコンピュータ躁状態もそろそろ終焉を迎えております。次回は「iの研究」で夫婦などを考察したいと考えています。)

現代美術の世界では、具象と抽象の区別は既に無効です。
絵画は物質である、という概念も過去のものです。
あるのは、絵画という概念だけです。
残ったのは、古(いにしえ)から続く絵画の秘密です。
文字(テキスト)も、秘密ですね。
実に、秘密で、ミステリアスです。




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