上の小さな画像は、JR市ヶ谷駅のホームから新宿方面を見た景色です。
中央を横切る橋は皇居の外濠に架かっています。
駅直下の外濠には、都心部では珍しい釣り堀もあります。
わたしの週のスケジュールの初めは、月曜が藍画廊で撮影と取材で都内一泊、火曜は午前中に新宿から中央本線で山梨に帰ります。
東京の住居の最寄り駅は東京メトロ有楽町線の新富町です。
そこから池袋方面行きに乗って、市ヶ谷でJRに乗り換えて新宿まで行きます。
地下鉄の構内からJRに乗り換える改札を通ると、短い階段があって、そこを上ると市ヶ谷駅のホーム直接に出ます。
暗い地下鉄構内からJRのホームに出ると、爽快な景色が外濠側に広がっています。
壕があるお陰で見晴らしが良く、ビルが隣駅の飯田橋まで並ぶ、パノラマのような風景を楽しむことが出来ます。
晴天の日は尚更で、一気に気分が明るくなります。
右の画像は前述した釣り堀で、平日、のんびりと釣りを楽しんでいる人がチラホラ見かけられます。
ホームの反対側は崖になっていて、上は外濠公園になっています。
公園といっても、細長い通路のような公園で、四谷から飯田橋まで繋がっています。
桜の季節になると花見客で賑わう公園ですが、今年は震災の影響で静かだったようです。
ホームから公園側を見ると、大きな広告看板が並んでいます。
左は過日の広告看板で、いつもはこのように空きがなく並んでいます。
右は先日見た広告看板。
アサヒのビールの広告看板の左右が空いていて、真っ白になっています。
震災の影響でしょうか、それとも、たまたま交換時期で空白になっているのでしょうか。
いずれにしても、わたしの好奇心をかき立てる光景です。
上左の「フランダースの光」の広告看板のあった場所のショットです。
この看板が一番大きな看板で、空白も最も目を惹きます。
モノクロに変換した画像ですが、どこかで見たような画像(写真)ですね。
美術に詳しい方ならピンと来たと思いますが、杉本博司さんの『劇場』シリーズを思い出します。
映画館で上映中シャッターを開き続け、映画一本分の「光」を銀塩プリントしたシリーズです。
クラシカルなアメリカの劇場と、発光する白いスクリーンの対照が印象的な作品です。
しかし上の画像は発光しているわけでもなく、ただ広告スペースが空白なだけです。
それなのに、風景から切り取ってみると、何となくインパクトがあります。
いつもあるものが不在なだけなのに、そこに目が行くと、気になってしまいます。
iPhoneのアプリでエフェクトを施し、若干発光させてみました。
広告の不在で思い出すのは、震災後直後のAC(旧公共広告機構)の連発です。
あれも広告の一種ですが、キャンペーン、広報に近い広告です。
あまりの多さと、その内容の説教臭さに顰蹙を買いましたが、あれを空白の画面で放映したらどうだったでしょうか。
CMタイムに真っ白な画面を流し続けるのです。
そうすれば、ACの広告以上に顰蹙を買ったと思いますが、少し立ち止まって考えて下さい。
ザッピングなどしないで、そのまま見続けて下さい。
NHKを除いた民放では、あきれるほどCMの時間が長いことに気がつくと思います。
現代音楽家ジョン・ケージの「4分33秒」(無音の音楽)とは違った意味で、その空白にいろいろな想いが湧くでしょう。
広告とは商品の消費を促す手段で、わたしたちはその洪水の中で生活していることに気がつくはずです。
では、消費は悪いことでしょうか。
いえいえ悪いことではありません、資本主義は消費でまわっているのですから。
それが止まれば恐慌がおきますから、消費は美徳なのです。
しかし、異常とも思える広告の氾濫(消費への誘惑)は、とても気持ちの悪いものです。
それがいかに上品で、癒しに満ちて、面白いものであったとしても。
地球に優しい消費などあり得ないのに、平然とそれを謳う。
もし本当に環境に優しい消費があったとしたら、古代人のように、消費に見合うものを環境に還すことです。
常にプラスマイナスゼロの関係を、環境(地球)との間に築くことです。
あの悪評だったACの広告は、反面教師として、わたしたちに役立ったのかもしれません。
空白(広告)だらけのテレビ(新聞や雑誌も、そしてインターネットも)は、もういらない。
震災の復興は空白のない、つまり消費をできるだけ抑えた、人間らしい生活に戻ることです。
それはそんなに昔の話ではなく、つい150年ほど前の江戸時代には、そういう生活が営まれていたのです。
そうすれば(そこまで遡らなくても)、原発の是非以前に、原発などはいらないことになります。
もし街中の広告が消えたら。
それは空白の街です。
そういう街に、わたしたちは、今住んでいるのです。