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「iPhone's photo(21)」


iPhone's Photo(20)の続き

iPadとiPhoneがあれば、パソコンはいらない。
iPadの大ヒット以降、何人かの業界人から発せられた言辞です。
Webとメールが使えて、YouTubeや写真や動画が見られ、簡単な書類も作成できる。
確かにその通りかも知れません。
(それはAndoroid仕様のタブレットとスマートフォンに置き換えても同じです。)

操作体系からみれば、タブレット(タッチパネル)の方が格段に楽なのは事実です。
デジタル機器への敷居が低くなることは歓迎すべきことです。
しかし、わたしはパソコンが不要になることには一抹の寂しさを感じます。
タブレットとスマートフォンの魅力が解っても、パソコンの衰退には不満を覚えます。



iPadやiPhoneがヒットしているのは、それが良くできたガジェット(オモチャ)だからです。
わたし自身iPhoneをガジェットとして愛用しています。
一方で、パーソナルコンピューターは(ゲームも出来ますが)ガジェットではありません。
使用目的の特定できない不思議な機器、それがパソコンです。
つまり数値に変換できれば、何にでも変身できるのがパソコンであり、そこにパソコンの自由があります。
(それが逆に操作体系の難しさにもなっているのですが。)

そしてパソコンには特有の文化があります。
相互扶助のコミュニティや、フリー&シェアウェアなどのソフトウェア文化です。
その一つの結晶がGNU/Linuxで、あのAndoroidもGNU/Linuxをベースに作られています。
又パソコン創生期以来のカウンターカルチャーも健在で、そこにあるのは自由な批評精神です。



iPadやiPhoneなどのガジェットにも文化は生まれつつあります。
その文化の一部はパソコンの文化とクロスしますが、やはり別物だと思います。
手軽さが大きなアドバンテージであると同時に弱点になります。
例えば写真や動画の投稿がどこでも簡単に出来ますが、その寿命は簡便さに比例します。
大半は、すぐに情報の大河の流れに飲み込まれてしまうからです。



しかしながら、美しいディスプレイに指でタッチする感触と、そのスムーズな動き。
それはパソコンでは得られない快感です。
そして数え切れないほどのアプリケーションを自由に入れ替えし、操る快感。
一度その快楽を覚えたら、あの面倒なパソコンに戻れないかもしれません。
来年の今頃は、Andoroidベースのタブレットの新製品の洪水に遭遇しているでしょう。

一時、ネットブックのブームがありました。
ノートパソコンを手軽な大きさに縮小して、必要最小限の性能と低価格で売れまくりました。
通信カードとのセットで実質無料になることが、そのブームに拍車をかけました。
つい最近の出来事ですが、今思えば、iPad大ヒットの下地だったのかもしれません。



iPadは、その要素には新しいものはほとんどありません。
簡単に言ってしまえば、iPodTouchを大きくしただけです。
しかしその大きさの加減と画面の美しさ、スムーズな動きが、人を魅了したのです。
それは偶然もあったでしょうが、Appleの計算の確かさで、ネットブックへの回答でした。

ネットブックを一気に駆逐してしまったiPad。
意外にも、それはデジタルの歴史のマイルストーンになるような気がします。
たとえiPadというモデルがマイナーな存在になったとしても、先駆けとして名を残すでしょう。



わたしは矛盾に満ちています。
新しいiPhone4を待ちわびる気持ちと、パソコンの今後に対する不安。
その両方を持ちながら、横目でiPadを見ています。
それが偽らざる心境です。
ガジェット(オモチャ)が好きな性格と、何かを作る楽しさがあるパーソナルコンピューターへの愛着。
この分裂は当分続きそうです。