今年の夏は小熊英二の大著『1968』 と共に過ごしました。
『1968』は(上)(下)で2000ページを超える社会歴史学の書で、読むのに夏の約一ヶ月を要しました。
『1968』とは1968年の「あの時代」のことで、当時の若者の叛乱の意味と、現代との関係を探った研究書です。
戦後史の中で1968年は重要な年ですが、個人的にも忘れられない年です。
わたしが大学に入学した年で、上京して東京で生活を送り始めた年です。
『1968』を要約してみると、「あの時代」を、日本が発展途上国から高度成長による先進国に変貌する転換点として捉えています。
そしてその集団摩擦現象、表現行為が「あの時代」の若者の叛乱であったと結論づけています。
途上国型の貧困・戦争・飢餓を「近代的不幸」とすれば、先進国型の「現代的不幸」はアイデンティティの不安、リアリティの希薄化、生の実感の喪失になり、1968年とは、今に続く「現代的不幸」が若者を蝕み始めた最初の時代になります。
つまり、摂食障害・自傷行為・不登校といった今日的問題は「あの時代」に端緒があり、そのアレルギー反応が当時の若者の叛乱だったのです。
若者の叛乱とは主に大学紛争、学園闘争を指しますが、その多くは政治闘争から離反して思想闘争に変化していきます。
政治的な勝利よりも、自己とは何かを問う闘争へと変わっていきます。
その転換期、象徴が東大闘争で、全面的ともいえる政治的勝利を蹴って、永続的な闘争を選択しました。
あくまでも自己とは何かを問うて、結局安田講堂の落城(敗北)に突き進みます。
「あの時代」の若者の叛乱を代表するのは全共闘です。
世代が全共闘世代と呼ばれる由縁ですが、全共闘とはセクト(政治的党派)に属さない、水平的な組織でした。
セクトは上意下達の垂直的な組織で、それが全共闘のような組織とお互いを利用するような形で、運動が進みました。
(全共闘世代と呼ばれるものの、当時の大学生でも全共闘に属したり、シンパだった者は、全体から見れば少数でした。)
『1968』は当時若者だったわたしにとって、時代の渦中に引き戻されるようなドキュメント性を持っています。
特に(上)にその傾向が強く、「あの時代」が生々しく蘇ってきます。
『1968』は意識的に「あの時代」の文化的側面には距離を置いています。
(わたしは在日ということもあって、「あの時代」の政治よりも文化に惹きつけられました。)
それでも、『1968』には時代の匂いが強烈に漂っています。
結局、「あの時代」の叛乱は敗北に終わります。
そして全共闘の上層部の少なからずは、一流企業に就職して、企業戦士に変貌したといわれています。
全共闘世代の節操のなさが批判される由縁で、これは残念ながら的を得ています。
60年安保の敗北感を表した歌謡曲に、西田佐知子の『アカシアの雨がやむとき』があります。
「あの時代」にはそういった歌謡曲はありませんが、1969年に『みんな夢の中』という曲がヒットしています。
作詞作曲が浜口庫之介で、歌ったのは高田恭子。
『みんな夢の中』は、同じ浜口庫之介作曲の『愛のさざなみ』と同じような緩いテンポの失恋歌です。
失恋の歌なのに、どこかホンワカした曲調で、浜口庫之介の異才ぶりが遺憾なく発揮されています。
「あの時代」の若者の叛乱は1968年をピークとして、1969年まで続きます。
『アカシアの雨がやむとき』と同じように、もし当時のドキュメント映像のバックに流れる曲があるとしたら、この『みんな夢の中』が適当かもしれません。
しかしこの曲、名曲です。
恋愛の歌としても名曲ですし、人生の歌としても名曲です。
この曲を聴いていると、人の一生の喜びや悲しみも、ほんの短い、夢の中の出来事に思えてきます。