わたしの母方は兄弟が多く、従兄弟、従姉妹も少なからずいます。
その従姉妹の一人が、婚約者を亡くしました。
交通事故です。
悲しみのあまり家に閉じこもっていると、親戚の誰かから聞きました。
その話を聞いてから数ヶ月後、従姉妹の親、つまり叔父からわたしに連絡がありました。
折り入って頼みがあるとのことです。
お互いの仕事の都合をつけて、叔父の家で話を聞くことになりました。
従姉妹は二十七才。
わたしとの付き合いは冠婚葬祭程度ですが、なかなかの器量で、性格も悪くありません。
結婚を間近に控えた事故でしたから、その悲しみのほどは想像に難くありません。
亡くなった婚約者との交際も長く、失ったものの大きさを思うと、気の毒としか言い様がありません。
叔父から話を聞くと、家に閉じこもるどころか、毎日どこかに出掛けているとのこと。
問い質しても行先を絶対に教えず、却って、わたしに構わないでと反発される始末だそうです。
もっと不可解なのは、従姉妹が婚約者の事故死を認めていないという話です。
彼は絶対に生きていると、頑として事故での死亡を認めないのです。
心配した叔父は、従姉妹を知合いの精神科医に連れていきました。
診断は、特に精神に異常があるわけでもなく、事故のショックで一時的な混乱状態にあるとの説明でした。
カウンセリングと投薬を続ける方針でしたが、従姉妹は二度と精神科医に足を向けませんでした。
叔父の依頼は、従姉妹の行先です。
毎日朝食後に、判で押したようにクルマで出掛けます。
帰ってくるのは夕食前で、無言で叔母の夕食の支度を手伝うそうです。
仕事は事故後に辞めています。
退職して、しばらくした後に、毎日どこかに出掛けているそうです。
わたしは念の為、自分のクルマではなくレンタカーを借り、簡単な変装をして尾行を開始しました。
従姉妹がクルマを走らせたのは、住んでいるK市の山裾にある、小さな湖でした。
ここの駐車場にクルマを停めて、一日中ボンヤリ湖面を眺めたり、辺りを散策しています。
雨の日も、レインコートに身を包んで、行動を変えません。
昼食はほとんど摂らず、ペットボトルのお茶だけをいつも持参しています。
尾行を開始して一週間、叔父に報告しました。
特に心配な様子はないが、場所が場所だけに、もう少し観察を続けることで合意しました。
それから二日後、わたしは独断で従姉妹に近づきました。
偶然を装って、話しかけたのです。
最初は警戒した従姉妹も、しばらくすると打ち解けてきました。
そこはやはり職業上の知恵というか、相手に取り入る術(すべ)は、わたしも心得ています。
世間話から亡くなった婚約者の話になって、ふとした話の端から、彼女は口を滑らしました。
従姉妹は婚約者の事故死を知っていて(了承していて)、決して、その死から目を逸らしてはいなかったのです。
ただ、簡単に認めてしまう自分を許せなくて、家人にあのような異常な態度を取ったのでした。
婚約者の死は死として、彼女の胸の奥にありました。
この小さな湖は、二人の思い出の場所だったようです。
どのような思い出か語りませんでしたが、大切な空間だったようです。
従姉妹は、話題の途切れた短い沈黙の後に、唐突に語り始めました。
人は死ぬと何処へ行くのでしょうか。
それが知りたくて、毎日ここに来ています。
人は水から生まれて、水に帰る(還る)と言われることがあります。
だから、わたしはここに来ているのかもしれません。
Mさん(わたしのことです)、Mさんはどう思いますか。
急な問いで窮しましたが、一息入れて、わたしは口を開きました。
「死んだら、天国とか地獄には行かないと思う、そういう所もないと思う」。
「だけど、死んだらそのままお終いというわけでもないと思うね、ボクは」。
だとしたら?
従姉妹は訊ねます。
「死ねば身体も魂も無くなってしまうけど、残るものはあると思う。だけどその残るものが何だか今は分らない」。
「S恵(従姉妹の名前です)さんの言うように、人間は水から生まれて水に帰る(還る)のかもしれない。その循環そのものは、いわゆる生とか死で区切られないかも知れないしね」。
「ボクは、S恵さんのような辛い立場になったことがないから、それ以上のことは考えたことはないけど」。
従姉妹は、それ以上訊ねてきませんでした。
しかしその眼は、思い詰めたような眼ではなく、しっかりと前を向いていました。
話を終えると、わたしは事務所で約束があるからと伝えて、湖を後にしました。
翌日、叔父に再度報告をし、行動観察を打ち切ることにしました。
叔父も幾分安心したようでした。
その数週間後、従姉妹の外出は止り、就職活動に入ったとの連絡が叔父からありました。
わたしとの話がきっかけではなく、時期がそういう時期だったのです。
人は死ぬと何処へ行くのでしょうか。
あの時の、従姉妹の言葉です。
永遠の時間の中の、ホンの一瞬でしかない人の一生。
それが終われば、又永遠の暗黒が続くのでしょうか。
やはり、わたしはそうは思いません。
いや、そうは思いたくありません。
永遠の時間というは、言葉や論理の綾ではないでしょうか。
常の変化の中で、わたしとわたしたちは、カタチを換えながら現(いま)に在(いる)と信じています。