昔見た映画に、一通の書類の所在をめぐって争う物語がありました。
その書類は遺言状の類いであったような記憶がありますが、ともあれ、人間の欲が絡んだ話でした。
映画は、一枚の紙切れに翻弄される、人間の愚かさを描いていました。
コンピューターの普及期に「ペーパーレス社会」というキャッチフレーズが謳われました。
しかし現実はそうならず、コンピューターが世の中に定着するに従って、紙の書類も増えていきました。
社会の複雑化や、社会の中で書類の重要性が増したことが主な原因です。
又、簡単にプリントやコピーできるので、回覧で済んでいた文章も配布するようになりました。
契約社会の進行で、それに伴う契約書やら説明書なども新たに必要になりました。
お陰で、わたしの事務所も書類だらけです。
口頭の説明で済んでいた報告なども、いつの間にか二部づつプリントしています。
一部は依頼者に、もう一部は事務所で保管。
口約束の信頼が薄れてきて、何でもかんでも書類にする悪い習慣が根付いてしまいました。
放っておくと収拾がつかなくなるので、紙の書類は数年に一度整理しています。
必要なものは事務所に留め、法定で保管義務があるものは自宅の倉庫に移し、後は廃棄しています。
困るのは、書類以上に日々増え続ける、デジタルデータのバックアップ(保存)です。
一瞬でデータの飛んでしまうデジタルデータですから、確実なバックアップは必須です。
上の画像は、わたしの事務所ではありません。
K市のとある会社の社屋です。
例によって、事務所のあるK市をプライベートに探索している時に撮影したものです。
この様な画像もデジタルデータですから、バックアップを取っておかないと安心できません。
いつ何時ハードディスクがクラッシュするか分りませんから。
(ハードディスクは寿命のある消耗品です。)
フロッピーディスクにMOにCD-R、DVD-R。
バックアップメディアの変遷です。
今はコストと手間を勘案して、ハードディスクにバックアップを取っています。
しかし、これとても絶対ではありません。
落雷などあれば、本体とバックアップの同時昇天の危険があります。
去年ごろから、クラウドコンピューティングという言葉を良く聞きます。
クラウドコンピューティングでは、従来とは異なるバックアップが提案されています。
ローカル(自宅や会社)のコンピューターにはデータを保存せず、インターネット上のサーバーにデータを保管する方法です。
データの保管と管理は専門業者が請負い、ユーザーは料金を支払ってサービスを受けるシステムです。
不要になったコンテナですが、このような地方の土地の安い場所がデータの保管に適しています。
実際は、国外のアジアなどに広大なデータセンターを建設して、そこのサーバーにデータを保管します。
コンピューターの冷却にはコストが掛かるので、寒冷地が適しているという話も聞いたことがあります。
もちろんセキュリティは万全で、手許にデータを置くよりもよほど安全です。
定期的にメディアにバックアップを取るので、万が一の不測の事態でも被害は少なくなります。
主に企業がユーザーで、自社サーバーの構築及びメンテナンスの費用と比べればコスト的にも有利です。
クラウドコンピューティングの仕組みは、GoogleのGmailを例に上げれば、解りやすいかもしれません。
ご存知のように、GmailはWebブラウザからアクセスしますから、オンラインのコンピューターさえあれば、どこでもメールの送受信ができます。
メールソフトもクラウド(インターネット上)にあるので、必要ありません。
クラウドとは雲のことで、インターネットの遙か遠い場所をイメージした比喩です。
Gmailの容量は普通の人のメールデータ一生分以上といわれるほど、余裕があります。
ウィルスチェックも迷惑メールのフィルタリングも、Googleが施してくれます。
携帯電話からもアクセスでき、メールの送受信も可能です。
見返りはメールデータから抽出された広告の掲載です。
多分こんな感じで、外国の荒野の真中にデータセンターがポツン、ポツンとあるんでしょうね。
(実際は自宅近所の土手ですが。)
データも預けて、ソフトもいらない。
コンピューターは空の箱で、必要なのはWebブラウザだけ。
ま、それは極端としても、流れとしてはそういう流れです。
低価格、低性能のネットブックが売れているのも、そういう流れの一つです。
(要はWebブラウザだけ動けば良いのですから。)
IT業界は、ファッション業界と並んで流行語が好きな業界です。
バーンと目新しい言葉を打ち上げて、それをセールスのテコにする傾向があります。
ですから、クラウドコンピューティングの効能や影響も、そのつもりで受け止めた方が良いと思います。
ただデータの保管に関しては、いずれは遠隔地に移ることは間違いなさそうです。
空の箱ならぬ、空の家です。
主(あるじ)はいなくなりましたが、データ(生活の歴史、痕跡)は残っています。
厖大な書類やらデジタルデータに囲まれていると、ふと素朴な疑問に捕らわれれる時があります。
どうして人はこのような記録や情報が必要なのだろうか。
そういう単純な疑問です。
文字も紙もない時代、人は情報を五感と身体に記録しました。
文明的見地からみれば、犬猫などの動物と同じ状態です。
しかしそこには、人間の生存の本質があったような気がします。
人や人という類が生き延びる為の、環境(自然)との交感があったように思えます。
それがデータとして紙などに写され(移され)た時、何かが変わりました。
普遍という文明が、わたしたちの生活の基盤になったのです。
情報の量という意味では、文明以前も文明以後も変わりません。
自然の中には無限の情報があって、その中から、人は生存に必要な情報を取捨選択していたのです。
五感や身体に情報を記録する。
街や郊外を探索していると、その意味が何となく分るような時があります。
最近気が付いたのですが、風景にカメラを向けるのは、それを画像として記録するためだけではないようです。
立ち止まって、風景の中に身体を置く行為のきっかけとして、カメラが必要なのかもしれません。