わたしが都内の探偵社に勤務していたことは、ご存じかと思います。
新卒で入社して二年後、同じように都内の大学を卒業して、Sくんが入っていました。
わたしの入社した翌年は募集がなかったので、Sくんは直の後輩にあたります。
二年の間に探偵の基礎を習得したわたしは、仕事の合間に、Sくんの指導役も任されました。
Sくんは明るい性格の人でしたが、口数は少ないほうでした。
いつ見ても顔全体が少し笑っているような表情で、必要な時だけ口を開きました。
それでも退社後に飲みに行くと、時折冗談を口にしました。
一緒に居て退屈を感じさせず、なおかつ気を使わずに済む後輩でした。
Sくんが入社してから数年後、彼も仕事を任され、一人で調査に出掛けるようになりました。
几帳面なタイプで、時間は掛かるものの、丁寧に一つ一つの調査をこなしていきました。
新人に失敗は付き物で、彼も幾つかの過ちを経験しましたが、どれも軽微な事柄でした。
社内の評価もまずまずで、一人前の探偵になることを期待されていた頃、ある調査を担当しました。
調査の内容は、愛人の素行です。
中規模の会社の部長を務める依頼人の男には、愛人がいました。
趣味を通じて知りあった女で、女は別の会社に勤めていました。
退社後に示し合わせてデートを重ね、そのうち女に手当てを渡すようになりました。
手当ての額は不明ですが、世間から見れば、女は妻子持ちの部長の愛人にあたります。
その部長によれば、女の様子が最近おかしい。
以前のような親密さに欠け、デートをしていても、帰る時間を気にするようになった。
恋人でもできたのではないかと心配になり、調査を依頼してきました。
部長の女に対する傾斜は相当なもので、気になると食事も喉を通らないと訴えました。
不倫相手の心変わりを心配する前に、自分の心変わりの決着が先だと思いますが、ここで倫理は何の役に立ちません。
恋愛とは、自分勝手な思いの交錯に過ぎないこともあるからです。
ともあれ、この類いの調査はさほど難しくはありません。
女の周辺を探り、女を尾行すれば、新たな交際相手がいるかどうか判明します。
Sくんは上司の指示通り、周辺調査と尾行を開始しました。
最初のうち、調査の報告は順調に上司に上がっていました。
調査が山場に差しかかったころ、報告が途絶え始めました。
上司は不審に思いましたが、上司も重要な案件を抱えていたので、放っておきました。
それほど急ぐ調査でもなかったからです。
その後しばらくすると、Sくんは社に出てこなくなりました。
家に電話をしても出ません。
上司の依頼で、わたしはSくんのアパートを訪ねてみました。
留守でしたが、アパートで生活している様子はあります。
手ぶらで戻るわけにもいかないので、そのまま夜を待ちました。
夜遅く、Sくんは帰ってきました。
わたしの顔を見ても驚いた様子はなく、いつもの表情で、頭を下げただけでした。
部屋に上げてもらい事情を訊きましたが、要領を得ません。
体調があまり良くなくてとか、実家に少し問題が起きてとか、言葉を濁すだけです。
とにかく無断で休むのは問題だからと説得し、明日の出社を約してその日は帰りました。
しかし、翌日もSくんは現われませんでした。
そしてその当日、依頼者の部長が、恐ろしい剣幕で探偵社にやってきました。
何事かと案じた所長と上司が、部長を応接間に案内して応対しました。
部長は、調査依頼が愛人にバレたこと、その上、愛人が調査した探偵社と調査員までも知っていたことを早口でまくし立てました。
「おたくの調査と調査員は何をやっているのかね!」。
怒った部長の声は、応接間から漏れて事務所まで響いてきました。
所長と上司は平謝りに謝って、その場を何とか繕いました。
当然調査は打ち切りで、紆余曲折の末、部長に違約金と慰謝料を払うことで決着しました。
それでも腹の虫の納まらなかった部長でしたが、自身の不倫を表沙汰にすることもできず、渋々納得しました。
この顛末は、探偵事社の失態であり、信用問題に関わる事件でした。
すぐさま上司はSくんの聴取にとりかかり、数日で事の概要を明らかにしました。
Sくんは、調査対象の女性の何かに惹かれたようです。
それが何であるか、上司にも打ち明けませんでした。
調査対象に接近し過ぎて、相手に感づかれ、あろうことか逆に尾行されたようです。
それで身元がバレ、女は素行を調査されていることに気が付きました。
女は勘が働く性質(たち)で、直ぐに部長の顔が浮かび、問い詰めました。
女の巧妙な問いに、部長がうっかり尻尾を出してしまい、白状させられたのが事の次第です。
探偵にしたいような女ですが、素行に後ろめたさがなかったのなら、これほど手際が良かったかどうか・・・・。
この一件の後、Sくんは社内の書類制作に回され、現場から離れました。
それから更に一年経ったある日、Sくんは辞表を提出して社から去りました。
一身上の都合、という理由で。
Sくんは勤勉で仕事の覚えも早い方でしたが、探偵には向いていなかったかもしれません。
探偵は職業上、他人の私生活を調べます。
私生活の中には、秘密が潜んでいることもあります。
秘密が依頼された調査の範疇でない場合、見て見ぬふりをしなければいけません。
探偵は、常に通りすがりの他人であることを、職業的に義務づけられています。
尾行を職業とする探偵が、対象者に尾行された。
それに気が付かず、身元まで調べられた。
大きな失態です。
密かに行うのが探偵の調査ですから、漏れてしまったら意味がありません。
上司にも説明を拒んだ、Sくんと女の間の何か。
ほとぼりも冷めたころ、わたしは酒席で冗談交じりに尋ねてみました。
しばらく黙っていた後、Sくんが口を開きました。
「内容はいえませんが、女の秘密を見てしまったんですよ」。
「調査には関係なかったのですが、つい踏み込んでしまいました」。
それ以上のことは話さず、わたしも訊けませんでした。
それは、女の秘密に興味を抱いた、Sくんの秘密だからです。
もう済んだことですし、人にはそれぞれ秘密があります。
結局、Sくんは秘密に惹かれて女のセンサーに感知され、今度は逆に後をつけられたのでした。
不可思議だったのは、Sくんに、後悔の念や失態を恥じる気持ちがなかったことです。
所長や上司にはそれなりの態度でしたが、わたしや同僚には以前と変わらぬSくんでした。
あの、いつ見ても顔全体が少し笑っているような表情で、淡々と仕事をこなしていました。
辞めるときも、にこやかに去っていった印象があります。
わたしが想像しうるに、女の素行調査の途上に、魔の口があったのではないでしょうか。
女の秘密の中に、魔の口があったと思うのです。
それが見える人間と見えない人間がいて、幸か不幸か、Sくんには見えてしまった。
そのとき、Sくんは職業を忘れて、入り込んだと思います。
あるいは、確信的に、魔の口に入ることを選んだと思います。
魔の口とは、人生を誤らせる何かです。
わたしのような小心な人間は、知らず知らずのうちに、危険を避ける術に長けます。
人生を誤るのが、怖いからです。
しかし、その人生の中身をじっくりと吟味したこともありません。
とりあえずは、世間に迎合するしか生きる道のない、弱者だからです。
そういう人間にとって、Sくんは特別に映ります。
魅かれるものには、何も考えず、魅かれるからです。
その後のことなど、一切考慮せずに。
それを自分の人生と、心得ているように見えるからです。
考えてみれば、Sくんは人生を誤っていないかもしれません。
Sくんの人生とはそういう人生で、真直ぐその人生を歩んでいるのです。
彼にとっては、それがまっとうな人生なのです。
彼を今も忘れられないのは、その態度の所為だと思います。
その後の、Sくん。
彼は故郷に帰り、風の便りでは、実家の八百屋を継いでいるそうです。
結婚もして、子供が二人いるそうです。
あの表情は、今も変わらないのでしょうか。