十年一昔といいますが、あれは十五、六年ほど前の出来事です。
その当時、わたしは鬱々とした日を過ごしていていました。
何事にも自信をなくし、出口の見えない不安に焦りを感じていました。
休日、家にいても落ち着かず、近所の公園に気分転換に出掛けました。
公園は大小二つの池があって、杉並区でも有数の広さがあります。
公園の一方の入口から中程まで来たとき、見知った顔に出会いました。
Mくんです。
Mくんは手にカメラを持って、池の方に向いていました。
「久しぶりだね」。
どちらかともなく声が掛かり、邂逅にお互い笑みがこぼれました。
Mくんは、もともと弟の友人で、わたしの経営していた「西瓜糖」の近所に住んでいました。
客として、店の保安要員(?)としてお世話になっていました。
(Mくんは手先が器用な上に、機械、電気の知識があったので、何かと頼りになりました。)
彼は一時陶器の制作に打ち込んでいたことが有り、作品を店で販売したこともありました。
Mくんの実家は、イナカでは大きな測量会社で、その長男でした。
つまり跡取りを期待されていたわけですが、本人にその気がなく、東京で就職、結婚し、アパート暮らしをしていました。
大人しく真面目な人ですが、気分の浮き沈みが若干あって、家に籠ることもありました。
しばらく話をしていると、Mくんも沈んでいる時期であることが分かりました。
話し方や顔色に、どことなく元気がありません。
Mくんも気分転換で公園に来たようです。
池の鳥や魚の素早い動きをフィルムに収めて、気分を晴らしている最中とのことでした。
鬱と鬱の出会いですから、当然話は弾みませんが、Mくんの一言が記憶に残りました。
その一言がどんな話の中で出たのか、まったく憶えていません。
Mくんは、「欲しいものが無くなったら、とても困りますね」といったのです。
欲しいもの、買いたいものが無くなるのが、一番困る。
そう、いったのです。
東京銀座に建設中の「有楽町イトシア」です。
場所は有楽町駅銀座口とマリオンの間で、小規模の飲食店や娯楽施設が密集していた地帯です。
ご多分に漏れず有楽町駅前の再開発ということで、その中心になるのが、マルイを核テナントとした商業施設「有楽町イトシア」です。
Mくんの一言は、直ぐには理解できませんでした。
その言葉の、深い意味が分かりませんでした。
しかしその言葉はわたしの心に沈殿し、時の経過と共に浮き上がってきました。
消費には、必需な消費と選択の消費があります。
生活必需品は必要な消費で、文字通り日常生活に必要だから購入します。
それとは異り、選択的ともいえる消費があります。
生活に必要ではない、娯楽、趣味、教養的な消費です。
この消費の動機は欲望で、欲しいからその商品を選択して買います。
消費の必需と選択の間にはラインがありますが、一つの商品ジャンルにその二つが重なることもあります。
地方でクルマは生活必需品で、クルマがないと就職もままなりません。
ですから、価格も安く、維持費もかからない軽自動車が売れます。
他方都会では公共交通機関が発達していますから、通常クルマは必需ではありません。
余暇や趣味の道具として、選択的に所有されます。
もちろんこれは大まかな比較で、地方でも、必需でありながら選択的にクルマを購入している人もあります。
性能やデザイン、スティタスを優先し、日頃の足も兼ねて所有する人です。
もう一つ、バッグを例にとればもっと分かりやすいかもしれません。
女性のバッグです。
バッグは必需ですから、その用を足すものであれば、安くて丈夫なものがベストです。
しかし選択的に考えると、デザインや流行、つまりブランドが優先されます。
例えば、ルイ・ヴィトンとか。
ルイ・ヴィトンのバッグが耐久性に優れるというのは、(恐らく)事実です。
事実ですが、それは欲望を納得(正当化)させる為の理由に過ぎません。
高価だが、使用年数が長いので、結局は徳な買物という理屈です。
しかしこれだけでルイ・ヴィトンを購入する人は皆無でしょう。
耐久性は購入動機の下位に過ぎず、そのブランド性こそが購入の決め手です。
そのブランドを所有したい、身に付けたいという欲望こそが、ルイ・ヴィトンに向かわせるのです。
マリオン側から見た「有楽町イトシア」です。
(手前左は別の商業施設かもしれません。)
生活が豊かになれば、消費の中で選択的消費の割合が高くなります。
より豊かさを求めて、欲望は高まっていきます。
物質的豊かさに限界はありませんから、これは当然です。
資本主義とは、ある側面で、その理屈をベースに自転車操業を続ける経済体制のことです。
選択的消費はその内側に精神的な要素を多く含んでいます。
生活の豊かさとは、あるレベルから精神的な豊かさも含み始めるからです。
それが幻想だとしても、商品にはそのようなメッセージが込められています。
その時点から、欲望は生き甲斐という要素を孕(はら)みます。
高度消費社会において、究極の豊かさの一つは、皮肉なことに清貧です。
つまり、膨大な財力を注ぎ込んで、質素で簡潔に見える環境を得ることです。
精神的な豊かさを形にすれば、そのようになります。
その逆が成り金趣味で、ゴージャスでデラックスな、誰でも分かるリッチを目指します。
(成り金趣味を批評的に取り込むこともありますが、これは変態の範疇に入ります。)
欲しいという欲望に生き甲斐が入り込むと、厄介なことになります。
欲望には限界がありませんから、生き甲斐にも限界がなくなります。
選択的に商品を買い続けることが、唯一、生き甲斐を満足させることになります。
これが倒立すると、生き甲斐の為に、使いもしない商品をひたすら買い続ける病に陥ります。
テレビで、未使用のブランド品が山と積まれた一室を、ご覧になったことがあるかと思います。
(確信犯的に、欲望の果てに行きたくて消費を続ける行為は、却って潔いともいえますが。)
「有楽町イトシア」とは山手線を挟んで反対側にある、日比谷の「ザ・ペニンシュラ東京」です。
香港の高級ホテル「ザ・ペニンシュラ香港」の経営で、つい最近オープンしました。
消費とは、物品の消費ばかりではなく、サービスの消費も含みます。
各種のサービスが商品として毎日消費されています。
ハイクラスのホテルのサービスは、高級商品です。
このようなホテルにとって、女性客は上得意です。
都内の高級ホテルで女性客に依存していないホテルはありません。
その証拠に、大概のホテルにレディスパックという商品があります。
女性にとって、最高の消費はもてなし(持て成し)です。
それに比べたら、ルイ・ヴィトンのバッグはもてなしの装備に過ぎません。
もてなされるに相応しい服飾として、ルイ・ヴィトンは存在します。
女性がブランド品を愛好する要素に、(男性と違って)フェティシズムはほとんどありません。
恋愛も、ある意味でもてなしの一種といえるかもしれません。
そのように男性からもてなされたい、という願望、欲望は多くの女性が持っています。
もてなす方ももてなさられる方も、物品やサービスを消費しながら、恋愛を楽しみます。
そして家庭を持って子供が出来ても、永遠に消費は続きます。
いや、家庭こそが消費社会の基盤なのです。
そして、ある日。
自分の内側を覗いたら、そこには何もないことを発見します。
長篇小説『告白』(町田康著)の主人公熊太郎の最後のように、心の中に広がる曠野に呆然とするのです。
欲望という曠野だけの世界に。
(『告白』の熊太郎の呟きの意味とは異りますが、あえてダブらせてみました。)
わたしは長々と他人事を書いているのか。
いや、違います。
自分のこと、自分の世代のことを書いているのです。
大量消費社会と共に育った、自分と自分の世代のことを書いているのです。
バブルの時代に消費の旗振りをした、自分の世代について書いています。
高度経済成長初期の素朴で無邪気な消費が、このような世の中を生むとは思いもしませんでした。
「その責任を取れ」といわれても、取りようがないので、考えているだけです。
ただ、考えているだけです。