稀に、同一人物の調査を、異る依頼主によって異る時期に依頼されることがあります。
わたしがK市に事務所を開いてから、二度そのようなことがありました。
最初のケースは、いずれも取引先からの信用調査でした。
調査対象が経営する会社の取引先です。
調査と調査の間隔は四年。
信用度に多少の変化はありましたが、調査報告は似たようなものでした。
二度目のケースは、調査内容が異っていて、信用調査と遺産相続に関する調査でした。
不動産取引を営む小さな会社の経営者が調査対象でした。
このケースは報告が異りました。
事業経営者としては優秀な人物で、取引先や従業員には良好な実績、印象を与えていました。
依頼主は金融関係の人間でしたが、信用について問題ない旨の報告を上げました。
遺産相続に関する方は、その八年後、親族が依頼者でした。
男(調査対象)の父の死期が迫っており、親族から見て、相続方面で良からぬ画策の疑いがあった為です。
その疑いはほぼ当たっていて、仕事上の知恵を活かした、不正な不動産の名義書き換えがありました。
調査報告が上がると直ちに、親族は弁護士を雇って裁判を起こし、泥沼の争いが数年続きました。
男の私生活上の評判は今一つで、家族、親族から孤立していました。
評判が良ければ、そもそも調査依頼などはなかったでしょう。
世間一般でいう「外面(そとづら)の良い人」かもしれません。
男の評価がどうして内と外で異ったのか、それは調査範囲外でしたので、分かりません。
文学に伝記(バイオグラフィ)というジャンルがあります。
ある人物の一生や半生を追ったノンフィクションです。
人物調査という事柄では、探偵業と重なる仕事です。
ただし伝記の多くは、調査した事実から人物の内面に迫ることに主題があります。
探偵業においては、内面よりは詳細な事実に重きを置きます。
そこから内面を読む自由や仕事は、探偵ではなく依頼者のものです。
わたしは伝記を読むのが好きです。
大概は世評や想像とは違う人物像が示されていて、正直、下世話な好奇心も満足させられます。
仕事柄、調査の筋を想像するのも楽しみの一つです。
筋とは、どのようなルートを辿って人物像を描くかということです。
しかしながら、伝記とは主観の為せる業であって、客観ではありません。
あくまでも著者の視点から見た人物像です。
だから面白いのですが、想像力で踏み込み過ぎると、かえって人物から遠くなってしまいます。
その距離感が、伝記の難しいところです。
伝記は、良くも悪くも著名な人物を対象に記されます。
わたしのような一般は対象外です。
出版されても、誰も買わないからです。
例外は企業家向けの伝記で、これは買い取りか、伝記の当事者が高額な原稿料を払います。
もし、わたしや貴方のような(失礼)人間の伝記が書かれたとしたら、どうでしょうか。
前述した、著者の視点というカッコ付きにしても、期待と不安でドキドキしますね。
過去の事実、出来事も、見方によっては解釈が異ってきますから、不本意であれば文句の一つも言いたくなります。
思ってもいない好評価で喜んだり、隠しておきたかった事柄が明るみに出て、落ち込むかもしれません。
他人(ひと)が見た自分。
一方で、自分が見た自分があります。
どちらが正しいかといえば、それは分かりません。
多くは自身が見た自分に固執しますが、さほどあてにはなりません。
他人から見た自分像の方が正しい場合も、少なからずです。
自分の目と他人の目の間で揺れ動いているのが、現実の自分の姿かもしれません。
伝記とは、一人の人間の歴史です。
歴史といえば社会の歴史ですが、その歴史は常に書き換えられるものです。
例えば、戦前と戦後に記された日本の歴史を比較すれば、一目瞭然です。
公の歴史とは、時の権力者の都合でどうにでもなるものなのです。
個人の歴史も、又同じです。
品行方正だった人間が重大な犯罪を犯せば、(書かれるはずだった)伝記はその犯罪を軸に過去に遡ります。
犯罪の萌芽がどこにあったか、小さな事柄まで、執拗に調査されます。
これは極端な例ですが、何を軸に置くかで、個人の歴史も微妙に異ってきます。
歴史とは、そういうものです。
自分史というものがあります。
自分が探偵になって、自分を調査するのが自分史ですね。
他方本職の探偵は、本人には訊かず、周辺を徹底的に調査します。
どちらが正しいか。
これも分かりませんね。
分かりませんが、両方やれば、少なくとも複眼の自分史ができます。
本人も忘れてしまった事や、考えが及ばない成育環境の影響などが、自分史に厚みを与えるからです。
これは探偵業の新たな営業項目になるかもしれません。
ご用の節は、ご指名いただきたく思います。
冗談はともかく、個人の歴史も未完で有り続け、死んでも未完です。
なぜなら、死後の新事実というものがあるからです。
そこで、個人の歴史が書き換えられてしまいます。
そのように、未完なのです。
探偵の仕事は、限られた範囲の限られた時期の調査です。
そうでなければ、やっていけません。
もし本当の調査というものがあるとするなら、それは永遠に続く仕事です。
死んだら、誰かが引き継ぐような仕事になるはずです。