去年もそうでしたが、夏の暑さはわたしの探索心を奪ってしまいます。
日盛りの午後に、街をブラブラする勇気はありません。
今年のような猛暑日が続くと、尚更です。
事務所のあるK市は盆地の地形で、夏暑く、冬寒い気候を特徴としています。
東京などと比べると、平均気温が二度ほど夏は高く、冬低くなっています。
冬場はともかく、夏は仕事以外では外に出る気がしません。
そんなわけで、盛夏は大人しく事務所で書類整理をしているか、依頼の電話を待っています。
書類の整理はやりだすと切りがなく、整理の苦手なわたしはすぐ厭きてしまいます。
適当なところで折り合いをつけて、ボンヤリ電話を待つしかありません。
夏の暑さが堪えるのは依頼人も同じで、電話を掛けて事務所に出向く力を奪ってしまいます。
問題は先送りとなり、秋の気配が本格化するころに依頼が集中します。
その日も暑さは容赦なく、事務所の窓から見えるアスファルトの景色は、熱気で揺れています。
このまま事務所にいても依頼はないだろう。
わたしはそう踏んで、クルマのキーをポケットに入れました。
幸い、K市から遠からぬ場所に避暑地があります。
高原の観光地で、高速を使えば一時間強で行けます。
今日の午後は、街ならぬ観光地の探索に決めました。
夏休みながら平日とあって、道路も混んでいません。
スムーズに高原まで着くと、軽い昼食を採るため、牧場のビュッフェにクルマを進めました。
ビュッフェの屋外にはイステーブルがちりばめてあり、各々が好きな場所でコーヒーや軽食を楽しんでします。
上の画像はその一部で、手前側にはもっと多くの観光客がいます。
観光地の時間の経ち方は独特で、日常のような区切りがありません。
ユッタリ(あるいはダラダラ)と時間だけが過ぎていきます。
日常のマンネリ化した時間から逃避するのも、観光の楽しみです。
しかし混みあうオンシーズンや連休ともなれば、何かにつけ、待ち時間が長くなります。
イライラが募って、些細なことで同行者と諍(いさか)いが起きることもあります。
楽しさが台無しになってしまいますが、まァこれも、観光の一齣(こま)といえば一齣ですね。
昼食後、高原を横断する道路を見つけてハンドルを切りました。
この道路を使って帰れば、往路とは異る景色を楽しめます。
道は徐々に登りになり、空気はいっそう涼しくなってきました。
K市の灼熱がウソのようで、窓を開けてエアコンを切りました。
しばらく走ると、展望台が見えてきました。
広い駐車場とお決まりの売店、レストラン。
観光地ならではの風景です。
しかしシーズンなのに休業中です。
人が殺到する土日のみの営業かもしれません。
ガランとした展望台に望遠鏡が一台。
コインを入れて眺望を楽しむ望遠鏡です。
望遠鏡が一般的でない時代、多くの観光地で、この望遠鏡の後ろに列が出来きました。
数分間の眺めは、どこか秘密めいていて、わたしは好きでした。
展望台からの眺めです。
渓谷を跨ぐ、深紅の橋。
実に、観光的な光景です。
この橋の景色と、橋をバックにして、膨大な数の人々が記念の写真を撮ったことでしょう。
考えてみれば、カメラの用途の多くは記念です。
行事や旅の、記念です。
後日の思い出として、人はカメラを携行します。
わたしのように探索で持ち歩く人は特異中の特異です。
それ故街中では、不審な眼で見られることがあります。
逆に観光地ではカメラ=記念ですから、マナーさえ守ればどこを撮っても咎められません。
わたしが何を考えていようが、知ったことではないのです。
そんなわけで気は楽なのですが、観光地の光景には今一つ気がそそられません。
街中の建造物や空間には時間や生活が閉じ込められていて、そこに興味がいきます。
観光地にあるのは、不変(と思わせる)の景色と既成の歴史です。
その美しさや雄大さに眼を奪われますが、それ以上先に進めません。
観光の歴史をたどってみれば、伊勢参りや善光寺参りなどの参拝の旅がルーツです。
一般の人々の移動が自由でなく、又その必要性もなかった時代に、例外としての旅(お参り)がありました。
信仰と物見遊山がゴッチャになった大イベントで、一生に一度あるかないかの旅でした。
今の観光(旅)は労働とセットになっていて、有意義な余暇の過ごし方として普及しました。
メインはあくまでも労働で、観光の立場は、生産活動を補完する休養にあります。
その一方で、観光業自体も発達し、観光という消費は大産業になっています。
観光地の風景の多くは自然です。
その自然には、(近代以前は)固有の歴史があって、多くは信仰の対象でした。
登山はスポーツではなく、神聖な山に入る儀式でした。
そうであれば、風景の見え方にも大きな変化があるはずです。
同じ山でも、見え方がまったく違ったはずです。
日本では戦後に発達したレジャー(余暇)としての観光。
その近代化の歩みの中で、風景は漂白され、記念としてのポジションを確立したようです。
わたしの探索も、物見遊山の一つです。
しかし、わたしは記念にはさほど興味がありません。
だから、物足りないのですね。
道はいつしか下りとなって、エンジンブレーキを多用しながらクルマは進みました。
その途中の牧場で、クルマを止めて一休みしました。
牛が放牧されています。
牛はこちらにまったく興味を示さず、ひたすら草を食んでいます。
一見自然な光景に思われますが、実は極めて人工的な光景です。
食肉用の牛の飼料である牧草を植えるために、森林を伐採し、その生態系を一掃した跡だからです。
地球規模で考えると、牧畜の定着による牧草地の急激な増大は、結果として地球の砂漠化を招いたそうです。
自然と人工の境は、このように曖昧模糊としています。
陽が傾いてきました。
わたしの半日観光は終りです。
窓を閉め、エアコンのスイッチを入れ、高原を後にしました。