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LOUIS VUITTONの松屋銀座店が昨年11月にオープンしました。
銀座三丁目、WANNER BROS. STUDIO SHOPの真ん前です。
松屋銀座店といっても店舗は独立していて、デパートの売場という雰囲気ではありません。
店舗全体が格子模様のガラスで覆われていて、シンプルながら高級感を上手く演出しています。
(このページの上下の小さい画像が格子模様のガラスです。)

この場所には東京三菱銀行が入居していました。
銀行支店の撤退の跡にブランドショップが入店するという、最近良くあるパターンです。
銀行時代はショーウィンドウに現代美術が展示されていた事もありました。
時代は止まることなく変わっていく事を実感させられます。



LOUIS VUITTON松屋銀座店は、開店当初入場制限をするほどの盛況だったそうです。
他の高級海外ブランドも好調で大型店の出店が昨年から続いています。

ところで、世間は「景気が悪い」が挨拶代わりになっています。
「景気が悪い」とは、「不況」のことです。
「不況」とは、モノがいきわたって新たな需要が生まれず消費が停滞することですね。
確かに必要なモノはあまりありません。
所謂(いわゆる)生活必需品という意味では。

ところが、海外高級ブランドは「供給を確保するのに必死」(1/24付 朝日新聞)な状態です。
方やユニクロという低価格カジュアルブランドが猛烈に売れています。
実を言いますと、わたしはVUITTONもユニクロも所有しています
といってもVUITTONは財布(札入れ)一点、ユニクロもショートパンツと小物数点だけです。
とても愛用者とはいえませんね、この点数では。

それはともかく、必要なモノが無い状態(=不況)から必要を生みだす手法を資本主義は考えつきました。
モード(記号)です。
これは以前にも書きましたが、モノに実用性以外の記号を付与することで新たな需要を喚起することです。
モードという言葉でお解りの通り、ファッションから生まれた方法です。
情報によって流行を作り、それまでのモノを流行遅れにすることです。

甘糟りり子さんというライター(作家)の方がいます。
この人は、自分がそういった情報の中で育ち、そこから逃れられないことを自覚して文章を書いている人です。
雑誌「ENGINE」に載った小文「ブランドへの、ポルシェの道、ユニクロの道」をちょっと紹介します。



甘糟さんは、ユニクロのCMから物欲に支配されている現代人(自分を含めて)のパロディを見ました。

色が違うということだけを「個性」と勘違いし、安くて品質がいいことを「ファッション」とはき違え、欲しかったわけでもないフリースを義務のように買ってしまう。あのCMはそんな人々が大量に同じ方向へと動かされている、という図なのだ。
マテリアル・ファシズム、といったらいいのだろうか。
ユニクロが世間を繰っている、といいたいのではない。
ユニクロ自体は、極めて良心的で少々戦略にたけたメーカーなのだと思う。それを現実以上にちやほやし、“ブランド”として確立させてしまうことの向こうに、物欲支配を感じるのだ。
何かを強引にプランド化したい。出来れば、身近で手に入りやすいものを。そうすれば、目先の欲望が解消される。そんな風に見える。
目先の欲望は、実は欲望なんかではない。日常をまぎらわすおもちゃのようなものだ。

目先の欲望云々は、説得力のある指摘だと思います。
続けて、ユニクロには作る側の具体的時代咀嚼がない、ブランドという発想から逃れていないのでアンチファッショナブルにもなり得ていないと書いています。
この後はポルシェの“カレラGT”の記述に移り、その物質によって提供される感覚への刺激(嗜好品の正しい在り方)が人工的に物欲を掻き立てられている現代人を、そこから解放してくれるものではないかと述べています。

そして、ポルシェに代表される超高級品市場が活発になったのは、ドットコム長者が生まれたからであり、彼らが嗜好品本来の在り方に光を与えていると続けた後、悲しい結論でこの小文を終えています。

大衆は、ユニクロのフリースの色でしか、物質による娯楽を楽しめないのか?結局私たちが物欲からの支配を逃れるには、金を手にしなければならないのだろうか?

ポルシェはどう転んでもポルシェであり、そのブランドを所有する欲望と感覚への刺激はアンビバレンス(裏腹)な関係であるとわたしは思います。
又、ドットコム長者はバブル紳士と同類だと思っているので甘糟さんの考察には全面的に賛同しませんが、この悲しい結論には考えさせられました。
余りにも悲しい結論ですが。



日本においてブランドが消費の重要なファクターになったのは80年代からです。
大小の差異にアイデンティティを求めて日本中が消費に明け暮れました。
わたしは、この時代に青春を送った人々(現在40才前後)を友人に持っています。
彼ら、彼女らの生き方を見ていると青春がその後に及ぼす影響が良く解ります。
友人であるということは、わたしが彼らの生き方に共感していることでもあります。
あの時代(つまりはバブル期)が良く言われることは少ないのですが、どの時代でも良質な部分はあります。
(良質な部分の量、これはどの時代でも同じではないかと思います。)

わたしは80年代の良質な部分が好きであり、わたしの友人はその部分を少なからず持っています。
モノを見る眼が正確であり、それに熱くなりながら醒めてもいる。
モノに振り回されながらもモノとの共存に長けている、と言ってもいいかもしれません。
そして、そこから生まれる美意識はかなり良質だと思います。
わたし自身は、モノが不足している時代からモノが溢れている時代へ歳と共に生きてきた人間です。
溢れるモノとの付き合い方には不慣れですが、モノが自分自身にとってかけがえのない物であることも事実です。
最終電車で消費時代に到着した乗客の一人です。


人と同じなのは嫌である。
しかし、人と違うのも困る。
これが、今の消費のキーワードかもしれませんね。
ユニクロの同じフリースを他人が着ていてもかまわない。
ユニクロはブランドとしてはトレンドであり、その情報を所有している同士であることは言ってみれば仲間なのですから。
色の種類とコーディネートで差異が出来れば良いわけです。
ユニクロと何を組み合わせるかがポイントです。
VUITTONも同じです。
他人がVUITTONを持っているのは問題ありません。
問題はそのVUITTONが新製品、特に海外で発表したばかりのモノであるかどうかの差異です。
あるいはレアなVUITTONであるかどうか。
記号を所有する仲間意識と細分化による差別化。
それが、今のモノの消費の在り方です。

部外者から見るとどこが差異なのか判らないのですが、当人にとっては大きな問題です。
何故なら、そこに自分の存在の大きな部分が関わっているからです。
企業がこういった消費傾向に対応するのは大変だと思います。
情報の収集のきめ細かさと、情報の組み合わせに能力が必要ですから。
そこで、少数の勝ち組と多数の負け組に分けられたのが今の不況です。
必要と思われるモノがなくなった時、独り歩きした物欲を上手く掬った企業が勝ち組です。

物欲、ホントにこれは困った存在ですね。
日本の高度経済成長のコアには物欲があったと思います。
現代のわたし達が物質的な豊かさを享受している以上、この物欲を無下に否定出来ないと思います。
否定は出来ないが、ポルシェを買うお金も当然ない。
感覚への刺激によって物欲から解放されるチャンスはゼロなわけです。
精神世界へ旅立つという手もありますが、これはヘタすればオウムですからリスクが有りすぎます。
それに、精神世界に行っても物欲から上手く逃れられる保証が有るとは限りませんしね。

消費がモノからコトに移っているという話もあります。
iMODEに代表される携帯電話のことですね。
消費が、情報通信で交わされるコトにスライドしているいう説です。
その辺も含めつつ機会をみて「iの研究」で消費について考察したいと思っています。
「iPhoto」なのについ研究癖(?)が出て長文のテキストになってしまいました。
スペシャル版ということで御容赦下さい。



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